今月の法話(10月)

2016 年 10 月 1 日

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 「思いどおりになること、
      ならないこと」

 布村行雄(城西組心法寺)




 8月から9月にかけて、ブラジル・リオデジャネイロでオリンピック・パラリンピックが開かれました。地球のちょうど真裏にあたる地域で開催されたため、競技中継が夜中から朝方になり寝不足になった人も多かったと思います。ご承知のように日本選手団は、眠気を吹き飛ばすような素晴らしい成績をおさめてくれました。選手たちからは、決してあきらめないこと、努力を続けることで道が開けることをあらためて教えられた気がします。

 しかし一方で、実力を発揮できなかったり、望んだほどの結果を得ることができずに、悔しい思いをした選手も少なからずいました。残酷ではありますが、あきらめずに努力を続けても、必ずしも最高の結果がもたらされるとは限らないのが現実です。努力は栄光への大前提ではあっても、成功を保証するものではありません。世界の一流選手となるためには、もって生まれた身体能力に加え、それを伸ばしたり補ったりするためのトレーニングの工夫、何よりそれを継続する意志と努力が必要です。

 そんな一流選手の間でも、結果を出せた選手もいれば、結果がついてこない選手もいる。では、両者を分けるものは何なのでしょうか? それは、最終的に「運」としか言いようのない部分ではないかと思います。膨大な意志や努力を積み重ねた先に、意志や努力を超えた領域が厳然と存在しているのです。

 これはスポーツに限った話ではありません。私たちの身の回りの出来事すべて、人生そのものについても言えるのではないでしょうか。例えば「死」です。私たち生きている者はいつか必ず死ぬわけで、これは誰もがわかっていることですが、いつどのように死ぬかは誰にもわかりません。
 健康のため食事や運動に気を使い、定期的な検診を心掛けていても、すべての病気を防げるわけではありませんし、事故や災害に巻き込まれて命を落とすこともあります。

 意志や努力が通じる領域と、それを超えた領域がある。
 わが宗祖法然上人は、この現実をしっかりと見据え、そこから出発した方でした。「念仏している間、心に妄念が浮かんでしまうのですがどうしたらよいでしょうか」との問いに、「それは自分にはどうしようもできません」と法然上人。「人として生まれた以上、妄念を絶って念仏せよとは目や鼻を取り除いて念仏せよというに等しい。大事なのはたとえ妄念が起ころうとも念仏し続けることです」と諭されています(『法然上人行状絵図』巻16)。
 また有名な『徒然草』には、「念仏していて眠くなった時はどうしたらよいでしょう」「目が覚めたら念仏すればよろしい」という問答も載っています(第39段)。

 私たちが人間である以上、眠気などの生理的欲求をはじめ、さまざまな心の働き(妄念)が起こるのはむしろ当然のことです。それを排除しようという方向に努力を傾けるのではなく、うまく折り合いをつけながら念仏を続けていくよう努めよと法然上人は説いておられるのです。
 「死」に対する向き合い方についても、念仏を称え続けていればどのような最期を迎えることになろうとも阿弥陀仏は必ず来迎して極楽に迎えて下さる、だから安心して毎日を過ごしなさいとおっしゃっています(『拾遺和語灯録』所収「往生浄土用心」)。

 「人事を尽くして天命を待つ」という諺があります。人事とは意志や努力が通じる人間の領域であり、天命とはそれを超えた仏の領域、といえるでしょう。自分の努力で何とかなる領域と、受け止めるしかない領域を見極める(明らめる)ことが、限りある人生を充実して過ごすためには大切なのではないかと思います。私自身、若い頃は「仕方がない」という言葉が嫌いでした。
 「あきらめる」という言葉にもマイナスの印象しかありませんでした。しかし、社会人として世の中のことを知り、浄土宗僧侶として法然上人の教えを学び、多くの方の葬儀に立ち会う中で徐々に考え方が変わり、違った受け止め方をするようになったのです。
 それと同時に、念仏こそが、人間の領域と仏の領域をつなぐ橋なのだと実感するようになりました。仏の領域の問題については、念仏を称えることだけに徹してあとは阿弥陀仏にお任せする、そして人間の領域では自分のすべきことに最善を尽くす。オリンピック・パラリンピックでの選手たちの姿から、「努力」について深く考えさせられた夏でした。

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