トップページ > 今月の法話
今月の法話≪東京教区所属の僧侶による法話を連載いたします≫

今月の法話(12月)

2016 年 12 月 1 日

tagaya_s



 「感謝をする心」

 多賀谷浄繁(北部組浄正寺)





 今年一年もまた振り返ってみると、あっという間でした。その日その日をそれなりに忙しく賢明にすごしてはきたけれども、何をしてきたのか、これといったことも無しえず、目の前のことに紛れて過ぎてしまいました。そんな思いがつのります。

 一日が終わり眠りにつく、朝、目が覚めると一日が始まる毎日が当たり前のように生活をしています。朝起きると息をしていること、指や手足が動くこと。自分で起き上がることが出来ること、ご飯が食べられること、庭に出ると木々の間から日が差し、季節の草花が咲いているのも見る事が出来ます。どれもこれも毎日の出来事ですが、このことが、幸せだと感じられる心こそが豊かさではないでしょうか。

 人生の喜びというのは、生きていることが当たり前ではなくて、生かされて生きていることに気づかなければならないということです。普段、生活をしていると自分の力で生きていると思っていますが、それはとんでもない間違いです。心臓が動いているのも、血が流れているのも、決して自分の意志ではなく、それは大きな力によって動かされているのです。有難いことなのです。

 当たり前のことに対する感謝の気持ちを忘れ、自分は何でも出来ると思い込んでいる。うまくいかないのは運命のせいだと思っている。自分の欲望にとらわれて「隣の芝生は青い」というように、ほかの道に心を奪われ、自分の適性に沿わない道へ進もうと無理を重ねる。見栄や体裁にとらわれて、適性を無視し、間違った方向へ行こうといった姿が、感謝をする心を忘れ、不満ばかりに目を向けている。これでは幸せになれるはずはありません。

 幸せだと感じることは、起こる出来事が決めるわけではなく、環境が決めるわけでもありません。自分の心が決めることです。幸せになるのは簡単なことなのです。幸せはなるものではなく、気づくものだからです。幸せは自分のとらえ方で決まります。生きていることへの感謝、生かされていることへのありがたさ、みんながお互いを大切にしあい、生かしあっていこうという考えをもって日々暮らしていけば、小さな思いやりの輪があちこちで生まれ、ひろがり、やがては、お互いに平和で明るく幸せに生きていることに、気づくのではないでしょうか。小さな幸せを感じる、その感情が未来の幸せを呼び寄せます。それが人生の喜びの生きる秘訣ではないでしょうか。

今月の法話(11月)

2016 年 11 月 1 日

ikuno_s



 「藕糸(ぐうし)の縁」

 生野善應(城南組光福寺)





  藕糸の縁とは、人の複雑な繋がりを浮き彫りにした、仏教の基本思想を表現する相応しいことばです。
 周知のように、人は、ほんらい非力な存在です。食べ物、住む家、着る衣服、どれを取り上げても、数え切れないほど多くの人々が関係して作り出されたものを手に入れて活用しているに過ぎません。
 人と人との繋がりがあってこそ、人は生きていかれることを考えたとき、人間関係はだれにとっても、かけがえのない宝物であることが分かります。家族、親族、近所の人やお友達との関わりありはありがたいと改めて認識したとき、こうした縁に包まれ支えられている自分がとても幸せに思われてきます。
 自分の現在に状況を取り巻く複雑な人間関係のぬくもりは、人が歳を重ねるにつれて自然と体験できていくといっても過言ではないでしょう。
 ところで、現時点における様々な人間関係いわば「空間的」なヨコの縁とは別に、「時間的」なタテの縁を取り上げなければなりません。
 人は、それぞれに父母がおり、さらに祖父母がいて、自分の身体的・精神的特長が構成されています。また指導してくださった諸先生や先輩、親しく付き合った友人、読書を通じて知識と教養を培って下さった諸学者の恩恵も忘れられません。

 自分を取り巻くタテとヨコの人のつながりは仏教の基本思想ですが、これをたとえて話すとき、藕糸の縁は最適です。
 藕糸とはハスの根のこと。ハスは池の底に根を張り巡らして複雑に絡み合っています。その一本を取り出してみると、一方の端は細く干からびて土に帰しており、他の一端は細かいけれども瑞々しくこれから伸びようとする勢いがあります。中間部分は太くたくましく水面に真っすぐに茎をのばして、先端に美しいハスの花を咲かせています。この一本の根をファミリーに当てはめてみると、細く干からびて土に帰した部分は老化した人や亡くなった方を指し、細かいけれども瑞々しく勢いのある部分は健康で社会の第一線で仕事に学業に励み充実している人々を指すといわれます。

 ハスが何本も折り重なっているのは、ファミリーが相互に関係をもって安定した社会を創造しているのに喩えられるろ考えられます。
 すべては縁すなわち相関関係で成り立っているとの仏教の基本思想は、藕糸の縁によって美しくまた身近に感じられます。

今月の法話(10月)

2016 年 10 月 1 日

nunomurag_s



 「思いどおりになること、
      ならないこと」

 布村行雄(城西組心法寺)




 8月から9月にかけて、ブラジル・リオデジャネイロでオリンピック・パラリンピックが開かれました。地球のちょうど真裏にあたる地域で開催されたため、競技中継が夜中から朝方になり寝不足になった人も多かったと思います。ご承知のように日本選手団は、眠気を吹き飛ばすような素晴らしい成績をおさめてくれました。選手たちからは、決してあきらめないこと、努力を続けることで道が開けることをあらためて教えられた気がします。

 しかし一方で、実力を発揮できなかったり、望んだほどの結果を得ることができずに、悔しい思いをした選手も少なからずいました。残酷ではありますが、あきらめずに努力を続けても、必ずしも最高の結果がもたらされるとは限らないのが現実です。努力は栄光への大前提ではあっても、成功を保証するものではありません。世界の一流選手となるためには、もって生まれた身体能力に加え、それを伸ばしたり補ったりするためのトレーニングの工夫、何よりそれを継続する意志と努力が必要です。

 そんな一流選手の間でも、結果を出せた選手もいれば、結果がついてこない選手もいる。では、両者を分けるものは何なのでしょうか? それは、最終的に「運」としか言いようのない部分ではないかと思います。膨大な意志や努力を積み重ねた先に、意志や努力を超えた領域が厳然と存在しているのです。

 これはスポーツに限った話ではありません。私たちの身の回りの出来事すべて、人生そのものについても言えるのではないでしょうか。例えば「死」です。私たち生きている者はいつか必ず死ぬわけで、これは誰もがわかっていることですが、いつどのように死ぬかは誰にもわかりません。
 健康のため食事や運動に気を使い、定期的な検診を心掛けていても、すべての病気を防げるわけではありませんし、事故や災害に巻き込まれて命を落とすこともあります。

 意志や努力が通じる領域と、それを超えた領域がある。
 わが宗祖法然上人は、この現実をしっかりと見据え、そこから出発した方でした。「念仏している間、心に妄念が浮かんでしまうのですがどうしたらよいでしょうか」との問いに、「それは自分にはどうしようもできません」と法然上人。「人として生まれた以上、妄念を絶って念仏せよとは目や鼻を取り除いて念仏せよというに等しい。大事なのはたとえ妄念が起ころうとも念仏し続けることです」と諭されています(『法然上人行状絵図』巻16)。
 また有名な『徒然草』には、「念仏していて眠くなった時はどうしたらよいでしょう」「目が覚めたら念仏すればよろしい」という問答も載っています(第39段)。

 私たちが人間である以上、眠気などの生理的欲求をはじめ、さまざまな心の働き(妄念)が起こるのはむしろ当然のことです。それを排除しようという方向に努力を傾けるのではなく、うまく折り合いをつけながら念仏を続けていくよう努めよと法然上人は説いておられるのです。
 「死」に対する向き合い方についても、念仏を称え続けていればどのような最期を迎えることになろうとも阿弥陀仏は必ず来迎して極楽に迎えて下さる、だから安心して毎日を過ごしなさいとおっしゃっています(『拾遺和語灯録』所収「往生浄土用心」)。

 「人事を尽くして天命を待つ」という諺があります。人事とは意志や努力が通じる人間の領域であり、天命とはそれを超えた仏の領域、といえるでしょう。自分の努力で何とかなる領域と、受け止めるしかない領域を見極める(明らめる)ことが、限りある人生を充実して過ごすためには大切なのではないかと思います。私自身、若い頃は「仕方がない」という言葉が嫌いでした。
 「あきらめる」という言葉にもマイナスの印象しかありませんでした。しかし、社会人として世の中のことを知り、浄土宗僧侶として法然上人の教えを学び、多くの方の葬儀に立ち会う中で徐々に考え方が変わり、違った受け止め方をするようになったのです。
 それと同時に、念仏こそが、人間の領域と仏の領域をつなぐ橋なのだと実感するようになりました。仏の領域の問題については、念仏を称えることだけに徹してあとは阿弥陀仏にお任せする、そして人間の領域では自分のすべきことに最善を尽くす。オリンピック・パラリンピックでの選手たちの姿から、「努力」について深く考えさせられた夏でした。

今月の法話(9月)

2016 年 9 月 1 日

inaokas_s


「“悪人“こそが仏の救いの対象」

稲岡正順(城北組 林宗院)



              
 忌まわしい事件が内外で起こっています。
 相模原市の障害者施設で大勢の入院患者が殺害されるという衝撃的な事件が起きました。フランス北西部ノルマンディー地方のカトリック教会に、刃物を持って武装した二人の男が押し入り、高齢の神父を刃物で殺害するという事件が起きました。容疑者たちは畏れ多くも聖職者である神父に膝まづくよう命じたそうです。このような無差別殺人や、聖職者がテロの対象になるというおぞましいニュースに接するとき、私たちは息のつまるような憤りを抑えることができません。

 このような極悪人の、許しがたい罪業について、私たち浄土宗徒はどのように対するべきなのでしょうか? 私たち凡夫のこころに渦巻く疑問や憤りを鎮めることは出来るのでしょうか?その答えを得るために法然上人の教えを再認識することにしましょう。

 法然上人は『選択本願念仏集』(建久九年、1198年)に、「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べて「悪人正機」(悪人こそ仏の真の救いの対象であるという説)を展開し、いくら努力しても善人になりきれない自己を見つめて、人は常に一層の努力をすべきと諭されているのです。法然上人の「一紙小消息」に次のようにあります。「罪は十悪五逆の者も生まると信じて少罪をも犯さじとおもうべし 罪人猶生まる況や善人をや」とあるのはこれを示しています。法然上人は悪を慎み、善を努めることを勧めたのです。

 法然上人の弟子である親鸞は『歎異抄』の中で「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と逆説的に説いています。このことをもって「悪人正機」を親鸞の独自説とする論調もありますが、大正六年に、法然上人の伝聞、法語の記録を記した『法然上人伝記』(醍醐本)が発見され、そこには「善人尚以往生況悪人乎(善人尚もって往生す 況んや悪人をや)」の法語が法然上人の「口伝」として記されていますので、先に法然上人の言葉があり、親鸞はそれを敷衍したに違いありません。

 さて、この法然上人の「悪人正機」とは、先に述べた、私たちにとっては極悪人としか思えない人間をも救いの対象としているのでしょうか。悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」などと悪人正機の意味を曲解して悪をなす者も出かねません。

 それが間違いであることを法然上人は厳しく諫めています。上人は「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」とおっしゃっているのです。このような極悪最下の人に対する教えに接すると、法然上人が悪を認め、すすめているのではないことが明確に理解できます。

 この「悪人正機」の意味を知る上で重要なのは、「悪」という言葉についての正しい理解です。この現実世界には可視的な善と悪が存在していて、悪をなした者は法律的に罰せられますが、「悪人正機」で言う「悪」とは世間的な意味の悪ではなく、人であるが故に宿命的に内在させている「絶対悪」のことです。どんなに隠そうとしても人の「悪」を見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人なのです。そんな惨めな存在である私たちを憐れみ、救い摂って下さる仏さまが阿弥陀さまなのです。
 
 何の罪もない大勢の障碍者を殺害するような、また聖職者を殺害するような人間が、世間的な法律で裁かれ、極刑に附される可能性は大きいと思われます。しかし、刑が執行される直前に、自身の行ったことの罪の深さに気が付き、心の底から懺悔し念仏を唱えることが出来たとすれば、たとえ刑場の露と消えようとも阿弥陀様はその者の魂を救い摂って下さるでしょう。

 「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」、今の世界にあふれる極悪最下の人の心に深く染み込むお言葉です。これこそ、非道な悪を犯した者への慈愛の言葉であり、その事件に接した私たち凡夫のこころに渦巻く疑問や憤りを鎮めて下さるお言葉です。

今月の法話(8月)

2016 年 8 月 1 日

mano_s

「身と心」

真野龍人(芝組威徳院)





 身と心を音読みすると「しんしん」。これを国語辞典で引くと、「心身」とあり、精神と肉体のことであります。心が前にあれば、体より優先されるのでしょうか。「心頭滅却すれば、火もまた涼し」ともいわれますし、「病は気から」」とも申します。また現代は「心の時代」といわれるほど、世間では仏教はまず「精神から」と思われているのでしょうか。

 新宗教などで、「この教えを信じたら、医者が見放した病気が治りました」というのをよく耳にしますが、これはまんざらウソではないかもしれません。いくら医者に診ていただいて薬を処方されても、本人が治そうとする意志がなければあまり効果は望めません。しかし強い信仰心と意欲をもって病に立ち向かい、延命し、治癒される方も確かにおられるようです。農作業で大ケガをして、必死で家にたどり着いて一命を取りとめた方の話を聞きました。逆に交通事故で自分の大出血を見て、助かる命もショック死してしまうことがあるそうです。

 さて一方、同じ読みを仏教辞典で引くと、「身心」と出てこちらは身のほうが前です。浄土宗日常勤行式の「香偈」には、「我が身清きこと香炉の如く」と、まず「身」が登場、次に「我が心の智慧の火の如く」とあります。世間のことわざでも「健全な体には、健全な魂が宿る」といわれます。

 健康の話題では、生活習慣病に関する健康薬品の広告が巷にあふれております。また最近は、うつむきながらスマホを使用し続けると首に「スマホ病」といわれる疲労障害が起きたり、この種の話題には枚挙にいとまがありません。
 せっかくの能力を備えながら、身体がついていけないで終わってしまう方もおられます。「こころ」の棲み家が「からだ」ですので、棲み家が壊れてしまえば、心の拠り所はありません。

 仏教はどちらかに偏らない、極端を避ける宗教です。人はつい熱中し過ぎると視野が狭くなり、他の事がおろそかになって全体の事柄が目に入らなくなってしまいます。「木を見て森を見ず」とはよく申したもので、身心もどちらかに偏るとそれぞれの機能を果たすことができません。
 阿弥陀さまのみ命は永遠ですが、私たちの限られた時間はより豊かに生かし、広く眼を見開いて、命の尽きるまでを充実させたいものであります。

今月の法話(7月)

2016 年 7 月 1 日

itokodo_s



「信仰と念仏」

伊藤弘道(玉川組浄桂院)




讃題
『元祖大師御法語』
「信をば一念に生まると信じ、行をば一形に励むべし。」

 浄土宗の宗祖・法然上人の御法語に「信をば一念に生まると信じ、行をば一形に励むべし。」(『元祖大師御法語』前編15)という御言葉がございます。この御言葉を簡単に現代語に訳しますと「たった一遍のお念仏であっても極楽浄土に往生するのだと疑わず、お念仏の勤め方は、生涯を通じて常に忘れずに唱えなければなりません。」という意味です。

 極楽に行くのは「南無阿弥陀仏」と一遍唱えただけで極楽に往生出来る、と説くのに、何故、生涯に渡ってお念仏をお唱えしなければならないのでしょうか。
 その理由は、わずか一念や十念であっても往生できるからと言ってお念仏をぞんざいな気持ちで唱えれば、信心が修行を妨げることになります。逆に「生涯を通じて常に忘れずに唱えなければなりません」と述べられているからと言って、一念では往生できるかどうか分からないと思ってしまったら、それは修行が信心を妨げることになります。ですから「信心としては一念で往生できると信じ、修行としては一生涯励むべきである」とこの御法語は言っているのです。

 この御法語で一番重要なのが、信心つまり信仰と修行は表裏一体である、ということです。信仰がないと修行をやっていても無意味であるし、修行をしなければ信仰も結果も伴わないということです。
 このことは、1209年に越後の国(現在の新潟県)にいる光明房というお弟子さんに宛てた御手紙にも書いてあります。その内容は、仏法(仏様のみ教え)は修行なくして証は得られないという内容で「どんな教えであろうとも、成果を求めようとするならば、その実践の修行というものがなくてはならない。修行なくしてその報いや結果を得ることはありえない。だから念仏という行を起こして往生という結果を得るようにしなさい」(『勅修御伝』二九)というお手紙であります。

 一言で簡単に言うと「経験した者にしかその経験は身に付かない」ということになるでしょう。信仰を身に付けたいならば実践するしかないということです。実践するには、皆さん納得してからだと思いますので、まず、何故このような修行をするのかということを知っていただく。そうすれば、その修行の意味を知って、阿弥陀様の慈悲に触れ、自らを省みることができ、お念仏をやってみようというきっかけとなるのです。そこから僅かながらでも実践が始まり、信仰が少しずつ生まれ、信仰が高まればお念仏も増えていくのです。

 そうは言っても、まだまだ腑に落ちないことは尽きませんし、一朝一夕で身に付くようなものでは有りません。また、信仰心がないことに悩んでいる方もおられるでしょう。
 真の信仰というのは、人の意見に左右されるような中途半端なものではなく、行を理解し、行を重ねていくうちに深まり、他人を傷つけず、自らを律し、自分自身を導くものです。ですから、ぜひ、信仰を深めるために、お念仏の意味を理解し、お唱えください。

 阿弥陀様は、現在も西方極楽浄土におられ、衆生が心から信じて極楽に往生したいと願い、「南無阿弥陀仏」と名前を呼ぶのを待っておられます。名前を呼んだものは、必ず阿弥陀様が臨終の時に現れ、救いとって極楽に往生させて頂けるのです。それが、阿弥陀様の救いの慈悲であり、願いであるのです。
「たった一遍のお念仏であっても極楽浄土に往生するのだと疑わず、お念仏の勤め方は、生涯を通じて常に忘れずに唱えなければなりません。」この御言葉を忘れずに日々、お念仏をお勤め下さい。                南無阿弥陀仏

今月の法話(6月)

2016 年 6 月 1 日

kuwabara_s


「浄土門」
桒原忠夫(北部組光増寺)


 昨年4月に東京教区布教師会は、増上寺において80歳の御高齢になられた石丸晶子さまをゲストとしてお招きし、「カトリッ教会の法然上人」という題にての講演があった事を『師子吼』第7号(浄土宗東京教区布教師会報)を拝読し知りました。

 石丸さまは、キリスト教会の聖人のお話をする機会があり浄土宗の懷が深いことに感心され、この深さは、法然上人の大きさ、深さだと述べられていました。

 法然上人が念仏を広められる以前の仏教は悟りを得るためには、厳しい修行を積むしかないという教えであり、極めて限られた人にしか実践できないと言う「聖道門」仏教であり、これに対して、法然上人の「浄土門」仏教は、つまり立派な人々を対象したのと異なり一般の人々つまり、苦行したり、学問を積んだり、戒律を守ったりという事ではなく、「南無阿弥陀仏」とただ称えれば誰でも等しく極楽浄土へ往生出来るものである。私ども宗門に身を置く者としてはよく知っていると自覚していたつもりが、石丸さまの講演で再び学んだのでありました。

 石丸さまは、日本の仏教は、法然上人により180度変わりました。それは今から800年前の仏教改革者でありました。そして、今から僅か50年前に、法然上人の聖道門仏教から浄土門仏教へ改まった事がカトリック教会でも起こったことを語られました。

 それは1873年フランスにテレーズ・マルタンという聖者が現れた事。彼女は15歳で聖道門カトリック中、戒律がきびしかったカルメル会と言う修道会に入り24歳の若さで亡くなったそうです。修道院活動中に書かれた「神様が小さい花に下さった思い出の記」の書物を修道女になってからの内面生活・精神活動を執筆されました。その記が没後に刷られ瞬く間に信者に評判となり、ついに世界中に広がり読み継がれ、信仰思想から彼女の教えは1963年にカトリック教会での第一バチカン公会議により、カトリックの高位聖職者を動かし、聖道門から浄土門へとがらりと変わったお話をされました。この講話で世界で最初に宗教改革をされた法然上人の偉大さを痛感した次第であります。

 それでは法然上人のお説きになる「浄土門」とは何んでしょうかと改めて考え直しました。

 法然上人は修行中に善導大師の観経䟽の経文の「一心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」からヒントを得られ「南無阿弥陀仏」さえ称えれば、誰でも往生できると確信されました。

 それまでの仏教は、私たち自身が仏を選んで、自ら勉学に励んで智慧を極める方法(聖道門)であったのに対し、仏の方から私たち衆生に向かって示される方法(浄土門)へと言う考えを800年前にお説きになられました。

 専修念仏を主張され、阿弥陀仏を念ずれば仏の方から衆生を救って頂ける方法に改革されたのでした。

「浄土門」とは、価値観をこの世の向こう側にある御浄土の世界に置かれ、この世をお念仏を申し上げる往生する為の準備期間とされたのでした。

 この世ではお念仏をし、極楽にひとまず往生して、次には環境を変えて仏になるための修行をしようと言う発想を考案されたのでした。
 
 石丸さまの講演内容を知った頃、イタリアの知人よりヴァチカン王国でフランシスコ法皇のミサと法話が平成28年4月29日(土)開催される招待状を頂き、7万キロ離れたイタリー国へ行き出席しました。広場は世界中から集まったカトリック信者が6万人も集まり前方の席にて拝聴して参りました。法話はイタリア語でなされ約10分間のスピーチでした。内容は「神は富める人も貧しい人も平等にて慈愛の心でお助け下さる」という内容でした。法皇の心の中に浄土教の思いがあるのかと思うと感激した次第であります。

 世界で12億7千万人の信者がいるとされるカトリック教の熱心な参列者と法皇の約40分のパレードは目を見張るものがありました。訪伊したのも熱心なカトリック教会の信者、石丸晶子さまの増上寺での講演のお陰さまでした。

平成28年5月25日  

今月の法話(5月)

2016 年 5 月 1 日

sakaki_s



「専修念仏」

榊 泰純(城南組興昭院)



 法然の仏教は専修念仏と呼ばれている。文字通り、念仏だけをひたすら修することを教えている。法然以前には、すでに念仏は流布していた。法然が発見したのは、念仏の背後にある阿弥陀仏の本願という救済の原理なのである。

 昔、阿弥陀仏が仏となる前、法蔵比丘と申した修行者であった時、当時仏であった世自在王のもとで修行していた。法蔵は、自分が仏となった時、すべての仏国土よりすぐれた国土を建設したいと願い、四十八の誓願をおこし、もしこの誓いが実現しないのなら、自分は仏にならないと決意を述べた。長い修行の結果、仏となった。法蔵は仏となり阿弥陀仏と名のり、西方極楽浄土で、現に今説法しているという。
 
 この法蔵の誓いの一つに、もし衆生が、自分の国へ生まれたいと願って、自分の名を呼ぶ者がいれば、どのような人間であっても、自分の国へ迎えて仏としてやろうというのがある。これを本願念仏と申し、この誓いに基づく念仏のことなのである。

 この物語を記している『無量寿経』には、わが名を呼ぶ者があればとは明記されていない。
*名を呼ぶのではなく、”十念”という表現である。
『無量寿経』(巻上)第十八願 「もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く」

 これを明記したのは中国の善導であった。
*善導大師は「乃至十念」と「具足十念称南無阿弥陀仏」(『観無量寿経』第十六観)とを結び付けて解釈し、「十念」を南無阿弥陀仏と十回声に出してとなえることと解釈している。

 この善導に傾倒していた法然は、専修念仏の教えを開いたのである。
*法然上人は「念声はこれ一つなり」(『選択本願念仏集』)として善導大師の説に基づき、「十念」を十声の念仏としている。                        

 法然が発見した本願念仏とは、阿弥陀仏の誓いを信じてする念仏のことであり、阿弥陀仏の名を称すれば、いかなる者でも浄土に生まれ、仏となることができると信ずる立場なのである。
 
 そこでは念仏以外の、一切の条件、一切の資格は不要であり、念仏以外の行を修めることは、阿弥陀仏の誓いに合致しないということで、かえって浄土往生の妨げの原因となることとし、否定されるにいたったのである。

 『徒然草』の著者兼好は、法然浄土教を次のように記している。

 「ある人、法然上人に、「念仏の時、睡りにおかされて行を怠り侍る事、いかゞしてこの障りを止め侍らん」と申しければ、「目
 の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。また、「後生は一定を思へば一定、不定と思へば不定
 なり」と言はれけり。これも尊し。(第三九段)」

 兼好は法然上人の言葉として、一つは、弟子が、念仏の最中に眠くなって念仏ができなくなってしまった時、どのようにしたらよいかと、たずねられると、法然は、目がさめている間に念仏すればよい、と答えたこと。もう一つは、念仏する人が、確かに生まれることができると信じているならば、まちがいなく生まれることができるし、もし確信が持てないのならば、生まれることはむつかしい、ということ。兼好はいずれに対しても、心から賛意を表わしている。前者のエピソードは、法然の念仏が、昔からの苦行主義とまったく異なる世界のものであることを示しており、後者は、信がいかに重要であるかを示している。

 法然が、眠たいときは無理に念仏することはなく、目が醒めてからすればよいではないかと、簡単にいってのけている。本願念仏を信じる立場に立っているからこそ、可能な発言である。本願念仏においては、念仏することだけがすべてであり、苦行することが救済の条件とはなっていない。阿弥陀仏の誓いに従うことにはなっていない。

(文中の赤字*の部分は編集部で加筆しました。
                       参考:『浄土宗大事典』)

今月の法話(4月)

2016 年 4 月 1 日

gotos_s

「人間らしい社会とは」


後藤信之(城西組光専寺) 



 近頃とんとお目にかからなくなった人がいる。大法螺を吹く、大風呂敷を広げる類の人である。この類の人は良かれ悪しかれ愛嬌があり魅力があった。そして何より脇が甘く、懐が深い。元・内閣総理大臣・故田中角栄さんや日本映画の名作「男はつらいよ」シリーズの名優・故渥美清さん演ずる「寅さん」に代表されるヒーロー的な存在でもあった。
 
 東海道新幹線の最短運転間隔が3分であるとか、朝の通勤時間帯のJR山手線の運転間隔が1分とか‐最新式のコンピュータによる制御のおかげで‐恐ろしい程の時間の数値である。

 1㎝の何十分の一かのスペースに何千本からのトランジスタの入ったIC回路により正確に作動する。
 今の世の中・あまりにも「正確」のとりこになり過ぎてしまった。法螺や大風呂敷は正確でないところにある種の魅力があり、共鳴すべきところがあり、また実現へのあこがれがあった。

 科学者からは、サンマのお焦げを食うとガンになると言われて驚かされる。目黒のサンマでガンになっても構わぬ。本望じゃ。科学分析がどんなに正確な細かい数字を並べてもそんなものなどくそくらえである。機械がはじき出したデータなどで人間さまの世の中が決められてたまるものか。
 
 世の中・あまりにも数値やデータに頼りすぎている。データに振り回され・データがあれば何でも正しいと思ってござる。
 人間くさく、どろくさい。一見すき間だらけの世の中の方が余程温かく明るく楽しいかをご存じないか。もしデータが100%正しければ、先のサッカー日本女子チームは優勝できたはずである。

 本物とは何ぞや。それは「確からしさ」にあると思う。ハイゼンベルクの不確実性の原理である。らしさとはゆとりであり、心である。

 規則や法律は最小限度が最も優れた文明国家という。あとは人間らしさで行く。これが本当の人間らしい心の通った社会ではあるまいか。草葉の陰で田中の角さんや寅さんは何と思っているであろうか。彼らのような御仁が登場する世の中は、果たしてまたやってくるであろうか。最近ふとそんな事を考えてしまうのだが・・・。

今月の法話(3月)

2016 年 3 月 1 日

hibino_s



「お彼岸と敬いの心」

日比野郁皓(浅草組榧寺)






 いよいよやわらかい春の日差しに花の便りも聞かれる3月、お彼岸の季節となりました。めまぐるしく気温が変化したあとの春の到来、自然のいとなみが今年はことさらに新鮮に感じられます。お彼岸のお中日は春分、秋分の日として国民の休日となっていますので、お彼岸には多くの人々がお寺参りをします。

 お彼岸の行事は太陽が真東から昇り真西に沈む春分、秋分の日を中日として、前後3日ずつ合わせて1週間行われます。毎年のお彼岸には太陽の沈む真西の方向、すなわち極楽浄土に向かって多くの人が手を合わせ、お浄土の大切な家族やご先祖が幸せでありますようにと祈ってきました。また、彼岸とは私たちの住む俗世に対して悟りの世界のことですので、この期間は、悟りの世界に向けて精進する期間でもあるとされています。

 彼岸会の伝統は日本独自のものですが、この世を去った大切な人達が来世でも幸福であって欲しいということは、形式や期間こそ異なれすべての仏教徒共通の祈りといえるでしょう。また、現世に於いては年長者を尊敬し大切にする伝統も過去においては仏教国の共通の伝統であったと思います。

 私は浄土宗の先輩の皆様のお導きのお蔭で、20代から今日に至るまで世界仏教徒連盟に関係させていただき、また近年では国際仏教婦人会に参加し、いろいろな国の仏教徒の方たちと接してまいりました。そのご縁がきっかけとなって、現在では浅草蔵前にある私のお寺の学寮には、アジアや欧米からの若い学生や社会人が何人も住んでいます。その方達はお寺のお手伝いをしながら日本の文化や、仏教について学んでくれています。

 なかでもタイ人やマレーシア人などは、親戚か家族のようなお付き合いをさせていただいてきました。そんなご縁の中で私が学ばせていただいたことがあります。ある時、タイの結婚式に招待されたときのことでした。タイでは結婚式はたくさんの招待客が来る大きなイベントです。まず一部の選ばれた招待客はバスを連ねて新婦の家に招かれます。新婦の家ではその家の先代や先々代の家族の写真がずらりと並べられ、新郎新婦は招待客の前で、ご先祖様に結婚の報告をします。次に2人は親類の年長者たちに献茶をし、人生の先輩たちからお祝いやアドバイス、智慧の言葉をいただく儀式が行われます。

 タイでは王族が仏教徒ですのでほとんどの結婚式は仏式で行われます。夕方から披露宴が行われますが、ウェディングケーキに入刀すると、新郎新婦はお皿に乗せたケーキを持っておじいちゃまおばあちゃまや長老の席に行き、ケーキの一切れをお口にまで入れて差し上げるのです。そして若い2人は床に五体投地のような姿で尊敬と感謝の気持ちを伝えます。それは年長者を大切にする本当に美しい光景でした。日本人とは慣習が違いますが、先祖や年長者を大切にする心は仏教の国々に脈々と生きているのだと感じました。ふり返ってみると、日本人の私たちは日々の仕事に追われるあまり目上の方や先祖を敬う心を失いつつあるような気がしてなりません。

 お彼岸はこうした心をとりもどす素晴らしい時間であり、日本人が誇りに思って良い風習だと思います。春のお彼岸、日頃の忙しい生活をひとときはなれておじいちゃま、おばあちゃま、ご兄弟、お孫さん達、ご家族皆様、お待ち合わせになってお寺参りをなさったらいかがでしょう。一緒にご先祖に手を合わせ、お念仏にのせて敬いの心を手向けたいものです。

ページ上部に戻る