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今月の法話≪東京教区所属の僧侶による法話を連載いたします≫

今月の法話(7月)

2016 年 7 月 1 日

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「信仰と念仏」

伊藤弘道(玉川組浄桂院)




讃題
『元祖大師御法語』
「信をば一念に生まると信じ、行をば一形に励むべし。」

 浄土宗の宗祖・法然上人の御法語に「信をば一念に生まると信じ、行をば一形に励むべし。」(『元祖大師御法語』前編15)という御言葉がございます。この御言葉を簡単に現代語に訳しますと「たった一遍のお念仏であっても極楽浄土に往生するのだと疑わず、お念仏の勤め方は、生涯を通じて常に忘れずに唱えなければなりません。」という意味です。

 極楽に行くのは「南無阿弥陀仏」と一遍唱えただけで極楽に往生出来る、と説くのに、何故、生涯に渡ってお念仏をお唱えしなければならないのでしょうか。
 その理由は、わずか一念や十念であっても往生できるからと言ってお念仏をぞんざいな気持ちで唱えれば、信心が修行を妨げることになります。逆に「生涯を通じて常に忘れずに唱えなければなりません」と述べられているからと言って、一念では往生できるかどうか分からないと思ってしまったら、それは修行が信心を妨げることになります。ですから「信心としては一念で往生できると信じ、修行としては一生涯励むべきである」とこの御法語は言っているのです。

 この御法語で一番重要なのが、信心つまり信仰と修行は表裏一体である、ということです。信仰がないと修行をやっていても無意味であるし、修行をしなければ信仰も結果も伴わないということです。
 このことは、1209年に越後の国(現在の新潟県)にいる光明房というお弟子さんに宛てた御手紙にも書いてあります。その内容は、仏法(仏様のみ教え)は修行なくして証は得られないという内容で「どんな教えであろうとも、成果を求めようとするならば、その実践の修行というものがなくてはならない。修行なくしてその報いや結果を得ることはありえない。だから念仏という行を起こして往生という結果を得るようにしなさい」(『勅修御伝』二九)というお手紙であります。

 一言で簡単に言うと「経験した者にしかその経験は身に付かない」ということになるでしょう。信仰を身に付けたいならば実践するしかないということです。実践するには、皆さん納得してからだと思いますので、まず、何故このような修行をするのかということを知っていただく。そうすれば、その修行の意味を知って、阿弥陀様の慈悲に触れ、自らを省みることができ、お念仏をやってみようというきっかけとなるのです。そこから僅かながらでも実践が始まり、信仰が少しずつ生まれ、信仰が高まればお念仏も増えていくのです。

 そうは言っても、まだまだ腑に落ちないことは尽きませんし、一朝一夕で身に付くようなものでは有りません。また、信仰心がないことに悩んでいる方もおられるでしょう。
 真の信仰というのは、人の意見に左右されるような中途半端なものではなく、行を理解し、行を重ねていくうちに深まり、他人を傷つけず、自らを律し、自分自身を導くものです。ですから、ぜひ、信仰を深めるために、お念仏の意味を理解し、お唱えください。

 阿弥陀様は、現在も西方極楽浄土におられ、衆生が心から信じて極楽に往生したいと願い、「南無阿弥陀仏」と名前を呼ぶのを待っておられます。名前を呼んだものは、必ず阿弥陀様が臨終の時に現れ、救いとって極楽に往生させて頂けるのです。それが、阿弥陀様の救いの慈悲であり、願いであるのです。
「たった一遍のお念仏であっても極楽浄土に往生するのだと疑わず、お念仏の勤め方は、生涯を通じて常に忘れずに唱えなければなりません。」この御言葉を忘れずに日々、お念仏をお勤め下さい。                南無阿弥陀仏

今月の法話(6月)

2016 年 6 月 1 日

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「浄土門」
桒原忠夫(北部組光増寺)


 昨年4月に東京教区布教師会は、増上寺において80歳の御高齢になられた石丸晶子さまをゲストとしてお招きし、「カトリッ教会の法然上人」という題にての講演があった事を『師子吼』第7号(浄土宗東京教区布教師会報)を拝読し知りました。

 石丸さまは、キリスト教会の聖人のお話をする機会があり浄土宗の懷が深いことに感心され、この深さは、法然上人の大きさ、深さだと述べられていました。

 法然上人が念仏を広められる以前の仏教は悟りを得るためには、厳しい修行を積むしかないという教えであり、極めて限られた人にしか実践できないと言う「聖道門」仏教であり、これに対して、法然上人の「浄土門」仏教は、つまり立派な人々を対象したのと異なり一般の人々つまり、苦行したり、学問を積んだり、戒律を守ったりという事ではなく、「南無阿弥陀仏」とただ称えれば誰でも等しく極楽浄土へ往生出来るものである。私ども宗門に身を置く者としてはよく知っていると自覚していたつもりが、石丸さまの講演で再び学んだのでありました。

 石丸さまは、日本の仏教は、法然上人により180度変わりました。それは今から800年前の仏教改革者でありました。そして、今から僅か50年前に、法然上人の聖道門仏教から浄土門仏教へ改まった事がカトリック教会でも起こったことを語られました。

 それは1873年フランスにテレーズ・マルタンという聖者が現れた事。彼女は15歳で聖道門カトリック中、戒律がきびしかったカルメル会と言う修道会に入り24歳の若さで亡くなったそうです。修道院活動中に書かれた「神様が小さい花に下さった思い出の記」の書物を修道女になってからの内面生活・精神活動を執筆されました。その記が没後に刷られ瞬く間に信者に評判となり、ついに世界中に広がり読み継がれ、信仰思想から彼女の教えは1963年にカトリック教会での第一バチカン公会議により、カトリックの高位聖職者を動かし、聖道門から浄土門へとがらりと変わったお話をされました。この講話で世界で最初に宗教改革をされた法然上人の偉大さを痛感した次第であります。

 それでは法然上人のお説きになる「浄土門」とは何んでしょうかと改めて考え直しました。

 法然上人は修行中に善導大師の観経䟽の経文の「一心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」からヒントを得られ「南無阿弥陀仏」さえ称えれば、誰でも往生できると確信されました。

 それまでの仏教は、私たち自身が仏を選んで、自ら勉学に励んで智慧を極める方法(聖道門)であったのに対し、仏の方から私たち衆生に向かって示される方法(浄土門)へと言う考えを800年前にお説きになられました。

 専修念仏を主張され、阿弥陀仏を念ずれば仏の方から衆生を救って頂ける方法に改革されたのでした。

「浄土門」とは、価値観をこの世の向こう側にある御浄土の世界に置かれ、この世をお念仏を申し上げる往生する為の準備期間とされたのでした。

 この世ではお念仏をし、極楽にひとまず往生して、次には環境を変えて仏になるための修行をしようと言う発想を考案されたのでした。
 
 石丸さまの講演内容を知った頃、イタリアの知人よりヴァチカン王国でフランシスコ法皇のミサと法話が平成28年4月29日(土)開催される招待状を頂き、7万キロ離れたイタリー国へ行き出席しました。広場は世界中から集まったカトリック信者が6万人も集まり前方の席にて拝聴して参りました。法話はイタリア語でなされ約10分間のスピーチでした。内容は「神は富める人も貧しい人も平等にて慈愛の心でお助け下さる」という内容でした。法皇の心の中に浄土教の思いがあるのかと思うと感激した次第であります。

 世界で12億7千万人の信者がいるとされるカトリック教の熱心な参列者と法皇の約40分のパレードは目を見張るものがありました。訪伊したのも熱心なカトリック教会の信者、石丸晶子さまの増上寺での講演のお陰さまでした。

平成28年5月25日  

今月の法話(5月)

2016 年 5 月 1 日

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「専修念仏」

榊 泰純(城南組興昭院)



 法然の仏教は専修念仏と呼ばれている。文字通り、念仏だけをひたすら修することを教えている。法然以前には、すでに念仏は流布していた。法然が発見したのは、念仏の背後にある阿弥陀仏の本願という救済の原理なのである。

 昔、阿弥陀仏が仏となる前、法蔵比丘と申した修行者であった時、当時仏であった世自在王のもとで修行していた。法蔵は、自分が仏となった時、すべての仏国土よりすぐれた国土を建設したいと願い、四十八の誓願をおこし、もしこの誓いが実現しないのなら、自分は仏にならないと決意を述べた。長い修行の結果、仏となった。法蔵は仏となり阿弥陀仏と名のり、西方極楽浄土で、現に今説法しているという。
 
 この法蔵の誓いの一つに、もし衆生が、自分の国へ生まれたいと願って、自分の名を呼ぶ者がいれば、どのような人間であっても、自分の国へ迎えて仏としてやろうというのがある。これを本願念仏と申し、この誓いに基づく念仏のことなのである。

 この物語を記している『無量寿経』には、わが名を呼ぶ者があればとは明記されていない。
*名を呼ぶのではなく、”十念”という表現である。
『無量寿経』(巻上)第十八願 「もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く」

 これを明記したのは中国の善導であった。
*善導大師は「乃至十念」と「具足十念称南無阿弥陀仏」(『観無量寿経』第十六観)とを結び付けて解釈し、「十念」を南無阿弥陀仏と十回声に出してとなえることと解釈している。

 この善導に傾倒していた法然は、専修念仏の教えを開いたのである。
*法然上人は「念声はこれ一つなり」(『選択本願念仏集』)として善導大師の説に基づき、「十念」を十声の念仏としている。                        

 法然が発見した本願念仏とは、阿弥陀仏の誓いを信じてする念仏のことであり、阿弥陀仏の名を称すれば、いかなる者でも浄土に生まれ、仏となることができると信ずる立場なのである。
 
 そこでは念仏以外の、一切の条件、一切の資格は不要であり、念仏以外の行を修めることは、阿弥陀仏の誓いに合致しないということで、かえって浄土往生の妨げの原因となることとし、否定されるにいたったのである。

 『徒然草』の著者兼好は、法然浄土教を次のように記している。

 「ある人、法然上人に、「念仏の時、睡りにおかされて行を怠り侍る事、いかゞしてこの障りを止め侍らん」と申しければ、「目
 の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。また、「後生は一定を思へば一定、不定と思へば不定
 なり」と言はれけり。これも尊し。(第三九段)」

 兼好は法然上人の言葉として、一つは、弟子が、念仏の最中に眠くなって念仏ができなくなってしまった時、どのようにしたらよいかと、たずねられると、法然は、目がさめている間に念仏すればよい、と答えたこと。もう一つは、念仏する人が、確かに生まれることができると信じているならば、まちがいなく生まれることができるし、もし確信が持てないのならば、生まれることはむつかしい、ということ。兼好はいずれに対しても、心から賛意を表わしている。前者のエピソードは、法然の念仏が、昔からの苦行主義とまったく異なる世界のものであることを示しており、後者は、信がいかに重要であるかを示している。

 法然が、眠たいときは無理に念仏することはなく、目が醒めてからすればよいではないかと、簡単にいってのけている。本願念仏を信じる立場に立っているからこそ、可能な発言である。本願念仏においては、念仏することだけがすべてであり、苦行することが救済の条件とはなっていない。阿弥陀仏の誓いに従うことにはなっていない。

(文中の赤字*の部分は編集部で加筆しました。
                       参考:『浄土宗大事典』)

今月の法話(4月)

2016 年 4 月 1 日

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「人間らしい社会とは」


後藤信之(城西組光専寺) 



 近頃とんとお目にかからなくなった人がいる。大法螺を吹く、大風呂敷を広げる類の人である。この類の人は良かれ悪しかれ愛嬌があり魅力があった。そして何より脇が甘く、懐が深い。元・内閣総理大臣・故田中角栄さんや日本映画の名作「男はつらいよ」シリーズの名優・故渥美清さん演ずる「寅さん」に代表されるヒーロー的な存在でもあった。
 
 東海道新幹線の最短運転間隔が3分であるとか、朝の通勤時間帯のJR山手線の運転間隔が1分とか‐最新式のコンピュータによる制御のおかげで‐恐ろしい程の時間の数値である。

 1㎝の何十分の一かのスペースに何千本からのトランジスタの入ったIC回路により正確に作動する。
 今の世の中・あまりにも「正確」のとりこになり過ぎてしまった。法螺や大風呂敷は正確でないところにある種の魅力があり、共鳴すべきところがあり、また実現へのあこがれがあった。

 科学者からは、サンマのお焦げを食うとガンになると言われて驚かされる。目黒のサンマでガンになっても構わぬ。本望じゃ。科学分析がどんなに正確な細かい数字を並べてもそんなものなどくそくらえである。機械がはじき出したデータなどで人間さまの世の中が決められてたまるものか。
 
 世の中・あまりにも数値やデータに頼りすぎている。データに振り回され・データがあれば何でも正しいと思ってござる。
 人間くさく、どろくさい。一見すき間だらけの世の中の方が余程温かく明るく楽しいかをご存じないか。もしデータが100%正しければ、先のサッカー日本女子チームは優勝できたはずである。

 本物とは何ぞや。それは「確からしさ」にあると思う。ハイゼンベルクの不確実性の原理である。らしさとはゆとりであり、心である。

 規則や法律は最小限度が最も優れた文明国家という。あとは人間らしさで行く。これが本当の人間らしい心の通った社会ではあるまいか。草葉の陰で田中の角さんや寅さんは何と思っているであろうか。彼らのような御仁が登場する世の中は、果たしてまたやってくるであろうか。最近ふとそんな事を考えてしまうのだが・・・。

今月の法話(3月)

2016 年 3 月 1 日

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「お彼岸と敬いの心」

日比野郁皓(浅草組榧寺)






 いよいよやわらかい春の日差しに花の便りも聞かれる3月、お彼岸の季節となりました。めまぐるしく気温が変化したあとの春の到来、自然のいとなみが今年はことさらに新鮮に感じられます。お彼岸のお中日は春分、秋分の日として国民の休日となっていますので、お彼岸には多くの人々がお寺参りをします。

 お彼岸の行事は太陽が真東から昇り真西に沈む春分、秋分の日を中日として、前後3日ずつ合わせて1週間行われます。毎年のお彼岸には太陽の沈む真西の方向、すなわち極楽浄土に向かって多くの人が手を合わせ、お浄土の大切な家族やご先祖が幸せでありますようにと祈ってきました。また、彼岸とは私たちの住む俗世に対して悟りの世界のことですので、この期間は、悟りの世界に向けて精進する期間でもあるとされています。

 彼岸会の伝統は日本独自のものですが、この世を去った大切な人達が来世でも幸福であって欲しいということは、形式や期間こそ異なれすべての仏教徒共通の祈りといえるでしょう。また、現世に於いては年長者を尊敬し大切にする伝統も過去においては仏教国の共通の伝統であったと思います。

 私は浄土宗の先輩の皆様のお導きのお蔭で、20代から今日に至るまで世界仏教徒連盟に関係させていただき、また近年では国際仏教婦人会に参加し、いろいろな国の仏教徒の方たちと接してまいりました。そのご縁がきっかけとなって、現在では浅草蔵前にある私のお寺の学寮には、アジアや欧米からの若い学生や社会人が何人も住んでいます。その方達はお寺のお手伝いをしながら日本の文化や、仏教について学んでくれています。

 なかでもタイ人やマレーシア人などは、親戚か家族のようなお付き合いをさせていただいてきました。そんなご縁の中で私が学ばせていただいたことがあります。ある時、タイの結婚式に招待されたときのことでした。タイでは結婚式はたくさんの招待客が来る大きなイベントです。まず一部の選ばれた招待客はバスを連ねて新婦の家に招かれます。新婦の家ではその家の先代や先々代の家族の写真がずらりと並べられ、新郎新婦は招待客の前で、ご先祖様に結婚の報告をします。次に2人は親類の年長者たちに献茶をし、人生の先輩たちからお祝いやアドバイス、智慧の言葉をいただく儀式が行われます。

 タイでは王族が仏教徒ですのでほとんどの結婚式は仏式で行われます。夕方から披露宴が行われますが、ウェディングケーキに入刀すると、新郎新婦はお皿に乗せたケーキを持っておじいちゃまおばあちゃまや長老の席に行き、ケーキの一切れをお口にまで入れて差し上げるのです。そして若い2人は床に五体投地のような姿で尊敬と感謝の気持ちを伝えます。それは年長者を大切にする本当に美しい光景でした。日本人とは慣習が違いますが、先祖や年長者を大切にする心は仏教の国々に脈々と生きているのだと感じました。ふり返ってみると、日本人の私たちは日々の仕事に追われるあまり目上の方や先祖を敬う心を失いつつあるような気がしてなりません。

 お彼岸はこうした心をとりもどす素晴らしい時間であり、日本人が誇りに思って良い風習だと思います。春のお彼岸、日頃の忙しい生活をひとときはなれておじいちゃま、おばあちゃま、ご兄弟、お孫さん達、ご家族皆様、お待ち合わせになってお寺参りをなさったらいかがでしょう。一緒にご先祖に手を合わせ、お念仏にのせて敬いの心を手向けたいものです。

今月の法話(2月)

2016 年 2 月 1 日

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「四摂事(ししょうじ)」
石井道彦(豊島組眞珠院)




 菩薩が衆生の心をひきつけ、親しみを持たせ信頼させ、ついには仏道に引き入れるための四種の行為を四摂事と云うことはご承知の通りです。四摂法とも云いますが、人々を導くための四つの方法、逆にいえば、次の四つのことが備わっていれば人々を心服させ信頼さすことが出来る特色ある言動とも言えましょう。その四つとは、布施(見返りを求めない施し)・利行(りぎょう・相手の得になり利益になる行為)・愛語(真心のこもった温かい言葉)・同時(相手の身になり同じ立場になった行為)の四者です。この四事が全部揃っていなくても、一つでもあれば人々を引き付けられるともされています。

 世界的文化遺産であり国宝にもなっている法隆寺の玉虫厨子の左側面に、崖下に横たわる数頭の虎に向って、崖上から身を翻して真っ逆様に飛び降りようとしている人物が描かれていますが、この画は“究極の慈悲心”とされる『金光明経(こんこうみょうきょう)』の”捨身飼虎”の説話に基づくものであることはご承知のことと存じます。因みにこの人物は帝釈天の計らいで生き返り菩薩の位に昇華しますが、四摂事の布施や利行に適う行為の結果のものでしょう。

 虎に因んで『愛育王経』に
「親虎に死なれ飢えに苦しむ子虎を見付けたある聖者が、哀れに思って寺に連れ帰り弟子の修行僧と全く同じ情を掛けて育ててやった。しかし、人間より寿命の短い虎のこと、やがて命を終えることになった。この時も聖者は人間の葬儀と同じように“諸法無我・涅槃寂静・・・”と経文を説いて聞かせ懇ろに葬ってやった。何年か経って、一人の若者がこの寺に現われ修行に励むことになった。この僧は他人のいやがる仕事も喜んで行うばかりか、寺を襲う悪獣を追い払ったり何かと寺のために尽した。こうしたことを不審に思った仲間の修行僧が聖者に問うたところ、聖者は『人間に生まれ変わったかつての虎である』と明かした」
という説話がありますが、この説話からも愛語など四摂事に適った行為のいくつかを指摘できましょう。

 ところで、当院の近くにNクリニックという医院があります。私共家族の家庭医(?)のような町の医院ですが、その待合室のテレビに他の映像と交って、かつて福祉関係者の間で評判になった樋口了一さんの歌の詩『手紙ー親愛なる子供たちへー』の詩句が時折映し出されます。

「年老いた私がある日
今までの私と違っていたとしても
どうかそのまま私のことを理解して欲しい。
私が服の上に食べ物をこぼしても
靴ヒモを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように
見守って欲しい。
私の姿を見て悲しんだり
自分が無力だと思わないで欲しい。
あなたを抱きしめる力がないことを
知るのはつらいことだけど、
私を理解して支える心だけを持っていて欲しい。
きっとそれだけでそれだけで
私は勇気がわいてくるのです。
あなたの人生の始まりに、私がしっかり
付き添ったように、私の人生の終わりに
少しだけ付き添ってほしい。(後略)」

 四摂事の「同時とは、お年寄りの現状を自分の子供時代の姿とを重ね合わせて理解することだと思います。また、同時の立場に立つならば、自ずから他の三摂事もついてくる筈です。四摂事はそれぞれ切り離されたものではなく、関連して一体となった菩薩行ではないでしょうか。

 クリニックのN院長の医者としてのモットーが待合室のテレビ画像となって表明されているものと考えます。実際、先生は私共患者の訴えを丁寧に聞いて下さり、少々手強い病気だと思われると大学病院の専門医に気軽に紹介状を書いて下さいます。四摂事とは僧侶の専権行為ではなく、全ての人間に共有されるべきものでしょう。

 私も佛祖釈迦如来、宗祖法然上人の世寿八十歳を超えて何年か経ち、僧侶としての自覚もややもすると薄れがちですが、この拙文が少しでも視聴者の役に立つならば幸甚であるばかりか、「今月の法話」に書かせることで老衲に覚醒を促して下さった教化団の方々の勇気に感謝いたします。

今月の法話(1月)

2016 年 1 月 1 日

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「大切な方との絆 いつまでも」

武田義親(八王子組龍泉寺)




「ねぇ?ママ泣いているの?」
「ごめんね。続き読むね。」
下から覗き込む娘も涙目。ママはこぼれる涙を抑えながら絵本の続きを読む・・・
『これからママのいうこと、おぼえていてほしい。』
・・・2015年、日本中の家庭で泣きながら絵本を読むママたちが続出しました。

 あけましておめでとうございます!2016年が始まりました。
 皆様にとって昨年はどのような年だったでしょうか。
 暗い話が続いた昨年ですから、年の初めのお正月は、歳神様をおもてなしして、1年間の家族の平穏無事を願いたいものです。

 え?歳神様って?
 お正月はその家のご先祖様である「歳神様」をお招きする行事です。旧年中見守り、導いてくれたご先祖様をお料理でおもてなしして、新たな一年の無事をお願いするのです。つまり、おせち料理は「奥様たちがお正月にゆっくりするための保存食」ではないんですね(笑)。
 よく「死んだらハイそれまでよ!」とか言いますが、決してそんなことはないんです!
 私たちが、先立った大切な方を思って生きていくように、亡くなった方も、私たちのことを思い、導いてくれています。

 宗祖法然上人様が、ご詠歌に残されております。

  うまれては まず思いでん ふるさとに
        契りしともの ふかきまことを

「うまれては」とは、亡くなった後、阿弥陀様にお救いいただいて極楽浄土へ生まれ変わったならばということ。
「ふるさと」はこの世。この世で約束を交わした方との絆を、極楽浄土に生まれ変わったら真っ先に思い出しますよ、と仰せです。
ではどんな約束を交わしたのでしょうか?
それは、お互い天寿を全うしたならば、必ず阿弥陀様にお救いいただき、極楽浄土に生まれ変わって、そこで再会しましょう!という約束です。
阿弥陀様のみ教え、お念仏で結ばれた強い絆、それが「ふかきまこと」なのです。

 来世を願うのは人として当たり前の事、お亡くなりになった方と絆が続くことを、誰もが願います。
しかし来世において、この世の絆が続くことは非常に困難なことです。生活の中で様々な「宗教的な罪」を犯し続けている私たちは、来世に人として生まれ変わることすら保証はありません。

 しかし、阿弥陀様はそんな私たちだからこそ「救いたいんだ!」と、誰でも極楽浄土へと生まれ変わることのできる修行「お念仏」をお示しくださり、私たちを極楽浄土へとお救い下さるのです。
そのおかげ様で、私たちは亡くなった方との絆を維持し、天寿を全うした後は、極楽浄土で大切な方と再会することが「確実」に叶うのです。

 私たち日本人が「『あの世』『天国』で見守っていてね」と言う時の裏には、この大前提があるのですが、何百年も当たり前になってしまい、「なぜ」とか「どうやって」「どこで再会する」といった部分が伝わらなくなってしまっているようです。

 歳神様だって、確実に「あの世」(極楽浄土)へ行っているからこそ、ご先祖様となって見守り、導いてくださるんです。
 私たちは、お念仏を称えて阿弥陀様にお救いいただいて、初めて大切な方との絆を維持できることを忘れてはならないのです。

 さて、冒頭にお話した絵本『ママがお化けになっちゃった!』をご存知ですか?10万部売れたらベストセラーの絵本業界で、昨年夏の時点で20万部。今はもっと売れているであろう話題作です。

 おっちょこちょいな主人公ママは事故にあって亡くなってしまいます。しかし4歳の息子かんたろうが気になって仕方ありません。ちゃんと1人で生きていけるのか・・・。そこでお化けとなってかんたろうの元へとやってきます。

 夜12時を過ぎると、かんたろうにもお化けのママは見えるようになり、様々なことを言い残します。そして最後に『これからママのいうこと、おぼえていてほしい。』と切り出します。

 いかにかんたろうのことを愛していたか。出会えたことがどれほどの幸せだったか・・・。かんたろうは泣きながら眠りにつきます。
翌朝目覚めると、かんたろうはママに届くように声に出して言います。
『ぼく、がんばってみる。ひとりでやれるよ。』

 ママの後悔、残された息子への気がかりも、よくわかります。
亡くなった方も、残された遺族も、お互いの事が気になって仕方がない。ましてや、「家族の絆が切れる」「忘れられてしまう」なんて考えられませんよね。
だからこそ、お亡くなりになった方へは、「忘れてないよ」「いつも見守り導いてくれてありがとう」と思いを伝え、絆を育む機会が大切なのです。

 お正月、春彼岸、お盆(お施餓鬼)、秋彼岸、そしてご命日。ぜひ絆を深め、思いを伝える日にしてください。

 そして、私たちは元気に生きている「今のうち」から、ずっと絆がつながっていられるように、阿弥陀様にお願いし、極楽浄土で再会するのだという認識を、家族で共有し約束しておく必要があるのです。

 そのためには「阿弥陀様どうかよろしくお願いします!」と思いを込めて「南無阿弥陀仏」と声に託してお称えする日暮らしを、家族みんなで大切にして参りましょう。
そう、決意は声に出して。かんたろうのように!

2016年が、皆様と大切な故人が共に生きる、良い年でありますように。 合掌

参考文献
『ママがおばけになっちゃった!』 作:のぶみ 出版元:講談社

今月の法話(12月)

2015 年 12 月 1 日

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「ご詠歌(えいか)のはなし」

古宇田順一(江東組西光寺)




 南無阿弥陀仏 大本山増上寺様では毎年4月初旬に御忌大会(ぎょきだいえ・法然上人の忌日法要) が執り行われます。その中で御忌詠唱(えいしょう)奉納大会も開かれ、わたくし
の所属します江東組詠唱会も毎年参加奉納させていただいております。
 全国各地より多くの檀信徒様が集まり、奉納大会の為に日々一生懸命練習し、お唱えする姿は本当に美しく頭の下がるおもいでございます。
 もしお時間とれましたらぜひご見学ください。
 そもそもご詠歌、ご和讃(わさん)とは法然上人の御作やお経をわかりやすく説いて節(ふし)をつけて歌にしたものでございます。詩にメロディーがつくと俄然親しみやすくなります。お風呂でも歌えます。

 浄土宗の宗歌は「月影のご詠歌」( 法然上人御作) と申します
   つきかげの いたらぬさとはなけれども 
           ながむるひとの こころにぞすむ

 夜の月あかりは山にも里にもくまなく照らしています。それと同じように阿弥陀さまの慈悲の光は世界を照らし、お念仏する人々をすべてすくいとります、という意味です。
 インターネットで「月影のご詠歌」検索するとyoutube にでてきます。

 また私がお通夜でお唱えするご和讃が「光明摂取」和讃です。
 
1  人のこの世はながくして かわらぬ春とおもいしに
   無常の風はへだてなく はかなき夢となりにけり
2  あつき涙のまごころを みたまの前にささげつつ
   ありしあの日のおもいでに おもかげしのぶもかなしけれ
3  されど仏のみ光に 摂取されゆく身にあれば
   おもいわずらうこともなく とこしえかけて安からん
   南無阿弥陀仏 阿弥陀仏
   南無阿弥陀仏 阿弥陀仏

 私自身はけっして歌はうまいとは思いませんがゆっくり丁寧に大きな声でお唱えさせていただいております。
 今さらながら、私のような者にご指導いただく先生に出会えたご縁に喜び感謝でございます。
 詠唱会の練習では一番最初に信条を皆様でお唱えして始まります。

 私たちはこの詠唱を通じ
一 あつく三宝を敬い、仏祖の恩徳に報います。
一 元祖法然上人の教えを体し、この道の興隆に励みます。
一 互いに助け合い、念仏をよろこびます。
一 自らのつとめにいそしみ、家庭の平和を念じます。
一 広く同信を募り、社会の浄化につとめます。

 一日一日を大切に、生きとし生けるすべての人々が幸せでありますように、お念仏の生活を送りたいと思います。  南無阿弥陀仏 
                                    合掌

今月の法話(11月)

2015 年 11 月 1 日

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「おかげさま」


吉水裕光(北部組 光照院)


 俳聖松尾芭蕉は「秋深き隣は何をする人ぞ」と、秋の深まりゆく風情を詠んでいます。その一生は旅から旅への俳句に捧げた人生でした。日光街道を北に向かった「奥の細道」はあまりにも有名ですが、東へ西へと旅は続き、晩年には長崎に向けて江戸を出立しました。しかし、その途中大阪で病に倒れ、元禄七年十月十二日多勢の門人達に見送られ、不朽の名句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と辞世の句を残し、五十一才の俳諧人生を閉じました。

 実りの秋とは言うものの何かもの悲しい心地になるのが晩秋なのでしょう。

 人生の晩秋と申せば死を思わずにはおられません。私達日本人は大切な人が亡くなった日を忌日や命日などと呼び大切にいたします。一年に一度その日が訪れると、祥月命日や、年忌、年回と申し、故人を偲び、供養を重ねます。

 芭蕉の命日も翁忌、桃青忌、時雨忌と呼ばれ供養が営まれます。すなわちご法事が執り行われるわけです。法事とは亡き人を想う家族や知人、そして弟子たちによって営まれ、その人達の心の癒やしとなるもの、それが追善供養なのです。

 供養とはインドに起こった仏教の教えで、三宝を敬い財物を供える事でした。三宝と言うのは、仏・法・僧を指し、釈尊を敬い、釈尊のみ教えを心の糧とし、僧伽(サンガ)に布施することなのです。

 ここで、サンガについて説明いたしますと、サンガとは出家した修行僧の集団のことで、僧たちは一切の生産活動に携わらず、在家信者からの施しを受けて生きています。釈尊のみ教えを信じ規律正しい生活の中で、互いに切磋琢磨しながら心の闇、心の中に巣食う三毒(貪・瞋・痴)すなわち貪りの心、怒りの心、愚かな心を打ち払い聖者の道に近づこうと修行を続けます。

 一方、在家信者は、聖者の道を志す修行者に供養をする事で、自分自身の功徳につながると考えていたのです。すなわちサンガに供養する事が自らの心を浄め、仏の道に近付く手段であると施食等に精を出していたのです。

 日本に仏教が入って来る時、神道における先祖崇拝とからみ合い、ご先祖や霊に物を供養する事が盛んになってきました。又、釈尊やそのみ教え、そして修行者達への供養が、ご先祖や僧侶への供養と変わっていったのです。しかもその供養は物や金品だけの布施では足りず、生前に供養が十分でなかった先祖や、沢山の罪を作ってしまった縁者の代わりに、生きている私達が代って行を積み、善を追うことが追善供養と呼ばれるようになってきたのです。自分の積んだ善行を縁者に振り向けると言う感覚は現代では残念ながら失われつつあるのかもしれません。しかし、自分が今ここにあるのも、祖先や縁者が功徳を積んで下さったお陰であると言う考えが仏教にはあります。あらゆるいのちのつながり(ご縁)によって私達は生かされているのです。同様に、今私達が積む功徳は、仏様の有難いおはからいにより、大切な子孫や縁者に善い循環をもたらすかもしれません。

 幸いな事に法然様は私達に、いつでもどこでも、誰でも出来る善行としてお念仏の実践をおすすめ下さっています。少しでも多くのお念仏を唱え、ご先祖や縁者に振り向ける追善供養の時をお過ごし下さい。

 〝いけらば念仏の功つもり
   しなば浄土へまいりなん
  とてもかくても此の身には
     思いわづらふ事ぞなき”

今月の法話(10月)

2015 年 10 月 1 日

narita


「宇宙の果て」


成田淳教(玉川組 感応寺)


「宇宙の果て」と言った時、多くの方は想像もつかない遠くを思い浮かべるのではないでしょうか。では、その果ての反対側の果てはと言った時、反対側の虚空を見つめ、また途方もない遠くを思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。物理的空間としての宇宙の果てはそうかもしれませんが、認識という意味では、宇宙の果ての反対側の果ては、宇宙の果てを想像した認識主体である“わたし”自身です。

 この“わたし”はこれを書いている私と言うわけではなく、私にとっての“わたし”あなた自身があなた自身を指して言う「わたし」で、認識の主体側の事を言っています。

 お釈迦さまは阿含経というお経の中で「一切とはなんですか」という問いに対して「一切とは6つの感覚器官とそれぞれその対象である。つまり、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえる音、鼻と鼻に感じる香り、舌と舌に感じる味、身体に感じられる感触、心とその心に描かれるものや記憶」と説かれています。みんなに聞こえているけれども“わたし”に聞こえていない音は一切に含まれず、“わたし”に見えているけれども、みんなには見えていないものは一切に含まれる事になります。

 例えば、夢を見ている時、その夢は他の誰にも見えず聞こえず香りもせず味もなく感触もなく何も感じません。けれども、夢を見ている“わたし”にとっては、少なくとも実際に感じているもののはずです。長い間五感とその対象がリアルに感じられる夢を見続けたとして、それが夢だと気づくでしょうか。或いは“わたし”にとってそれが夢であるか現実であるかという事は問題でしょうか。また或いは、いま“わたし”が見聞きしている世界は夢かもしれません。

 “わたし”と“わたし”が感受する世界と言うものは、物理的な現象と影響し合ってはいても結局はそれらを感受し、認識し、或いは記憶を積み重ねて“わたし”に“わたし”によって投影されたものと言えます。

 「善因楽果悪因苦果」「自業自得」という教えがあります。原因として善い行いをすればその結果として楽を感じ、悪い行いをすればその結果として苦を感じます。それらは、あくまでも自分の為した想い、行為、発した言葉が原因となり、その結果を自分が受けるという事です。但し、結果は原因によってすぐに顕れる場合もあれば、環境が整わず後にそれとわからない形で感じられる場合もあります。いずれにしても、原因の影響力は持ち続けます。
 今後、どのような世界を“わたし”に投影するかは“わたし”の想いとおこない次第です。

 阿弥陀さまは、極楽に往きたいと願ってお念佛をとなえる人を必ず迎えるというお誓いを立てて、その誓いを成就して仏さまになられました。ですから、ひたすらにお念佛をとなえていれば、臨終のときに阿弥陀さまがお迎えに来てくださる事は、自然法則のように疑いのない事です。

 “わたし”にとって大切なのは、極楽が物理的に有るか無いか等という議論ではなく、極楽を見るか見ないか、つまり五感に感じるか感じないか、先立った人たちに会えるか会えないか。
 今生きている世界が現実か夢かもわからない“わたし”は、お釈迦さまの教えを信じてお念佛をおとなえしたいと思います。

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