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今月の法話≪東京教区所属の僧侶による法話を連載いたします≫

平成25年3月「みな幸せであれ」本多将敬(江東組回向院)

2013 年 3 月 1 日

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  「みな幸せであれ」

  本多将敬(江東組回向院)



「みほとけ様に朝のご挨拶をいたしましょう。な~む~あみだぶ~。おはようございます。」お寺の幼稚園の挨拶は、みほとけ様への挨拶から始まります。どの子もみんなが一日の活動の始まりを今か今かと楽しみに、笑顔一杯に大きな口を開けてお唱えします。子供たちは、今日一日、自分達が楽しく仲良く過ごせますよう、自分自身のためにこの「南無阿弥陀仏」を唱えています。
 さて、大人に目を向けてみましょう。「誰々の供養のため」にお唱えしている方が多いのではないでしょうか。

 昨今、どうしても仏教というと、他者の為のもの、特に亡くなった生命に対するものと考えられがちに思えます。しかし、仏教は今より約2500年前に、まぎれもなく釈尊という生身の人間が、生きている間に、生きている人々に、真の幸せを共に模索するべく説かれた教えであります。
 では、「誰々の供養のため」は間違いなのでしょうか?そんなことはないと思います。「誰々の供養のため」だけでは足りないということでしょう。

 元来、日本仏教の多くを占める大乗仏教では自利(自らの悟りを求める)のみでなく利他(他人を良い方向へと導く)を強調します。それ故、自己が行う善行を単に自己の功徳としただけでは真の功徳とは言えず、それを他の一切のものに振り向けることで初めて完全な功徳になると考えられてきました。
 大乗仏教の中でも特に浄土教では、念仏を初めすべての功徳を一切の衆生に振り向けて共に極楽浄土へ往生したいと願う心を「回向発願心」と呼び、大事にしています。この場合の回向には、功徳を一切衆生に振り向けて共に極楽浄土に往生しようという「往相回向」と、極楽浄土に往生した人がそこに留まることなく輪廻の世界に戻り一切衆生を浄土に向かわそうという「還相回向」の二種がありますが、往相・還相共に、自らの往生を願う、救いを願うだけではなく、回りのあらゆる生命に功徳を振り向けようという訳です。
 「自分自身のため」が「誰々への功徳」とつながる南無阿弥陀仏なのでしょう。

 しかし昨今では、逆に、知人の「死」に直面して初めて「誰々への功徳」とつながる南無阿弥陀仏をお唱えしますが、その反面、その基本となる「自分自身のため」が忘れられがち。亡くなった生命は、お念仏によって、阿弥陀仏のお導きにより極楽浄土へ向います。固体という生命は終了したのかもしれませんが、物語られる人生としての生命は必ずや我々にその生命をもって何かを教え続けてくれているはずです。
 南無阿弥陀仏を称えることは、「その人への功徳」だけでなく、自分自身に生きていることの意義、ありとあらゆる生命に生かされていることを思い起こさせる自利の側面があることを認識すべきでありましょう。それこそ極楽浄土へ向った生命の還相回向に報いることであり、本当の意味での供養ではないでしょうか。

 一昨年の東日本大震災では、突如として余りにも多くの尊い生命が犠牲となりました。全国の方々が、その悲しい出来事に胸を痛め手を合わせたことでありましょう。一つ一つの命どれをとっても無駄であった命はない。一つ一つの命にそれぞれの人生があったのです。
 手を合わせる中で、生かされている・生きることの有難さを学びたいと思います。復興はまだまだ始まったばかり。被災地のことを忘れない。亡くなった生命を忘れない。
 「忘れない」をテーマに、今年の四月二十七日から五月十九日まで、”東日本大震災復幸支縁“信州善光寺出開帳を回向院で開催します。集まった浄財の収益金全額を現地の基金を利用して、現地で頑張っている団体等に直接お送りしようと考えています。被災地からは、津波で流され、その後に瓦礫の中から見つかった陸前高田金剛寺如意輪観音も一緒に同時開帳します。
 「生きとし生けるすべてのものは、みな幸せであれ」(釈尊の言葉)。より多くの方々にお参り頂き、南無阿弥陀仏を申し、命を振り返る場にしたいと願っています。

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