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今月の法話≪東京教区所属の僧侶による法話を連載いたします≫

平成31年1月「「幸せ」の意味を問い直す~「お念仏から始まる幸せ」に寄せて~」佐藤雅彦(教化団長・豊島組浄心寺)

2019 年 1 月 1 日

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●浄土宗開宗850年
 浄土宗では、5年後の2024年に「開宗850年」を迎えます。これは宗祖・法然上人が誰もが救われる道を求め、阿弥陀仏のお名前を称える念仏を広めて「浄土宗」を開いて850年が経過した、尊く大きな節目の年に当たります。この尊い意義を伝えるために、浄土宗では「お念仏から始まる幸せ」という標語を掲げ、檀信徒をはじめ広く社会の人々に広宣していく予定となっています。そういえば「幸せ」とは何でしょう?今月の法話ではこの標語に取り上げられた「幸せ」の意味について、改めて考えてみたいと思います。

●幸せとは何か?
「人生百年時代」といわれる中、95歳の文筆家・佐藤愛子さんが「幸福とは何ぞや」という著書を出されました。「幸せとは何か?」と問いかける編集者に対して佐藤さんは「自分の幸せをなんで人にたずねるのか」と、幸せは各自、みな異なるものと話しています。
「私たち大正生まれは、幸せが何かなんて考えたこともなかった」
「毎日を生きるのがせいいっぱいで、幸せになろうとして生きたのではなく、明日に向かって、目の前の現実を生きようとして、ひたすら生きてきただけだった」と語っています。戦中戦後を生き抜いてきた人だからこそ言える言葉ではないでしょうか。それに対して現代は、何でもできて当たり前、あって当たり前の時代で、些細なことでも一から作りあげる苦労や大変さも知らずにいる人が多くて、反って幸せを感じる力が弱くなってしまっているのではないか、と指摘する声も聞かれます。便利さと増殖されていく欲望とによって、われわれ現代人は、幸せを感じる力が昔と比べて弱まってしまったのではないでしょうか。

●「苦の世界」に生きる私たち
 幸せを願わぬ人はいないでしょう。しかし幸せを願っても、私たちの生活や人生は、悲しみや思うようにならない辛い出来事にも出会うものです。中には自身の人生を見つめると、悲しみの数の方が幸せの数より多いという人もおられます。なぜこんな苦しい目に会わなければならないのか、どうして思うように生きられないのか、人生を苦しみに感じる人は少なくないと思います。

お釈迦さまは、この世の中とは「耐え忍ばなければならない苦しみの世界」だと教えられました。この「苦しみの世界」のことをインドの言葉で「娑婆(シャバ)」といい、中国では「忍土」(耐え忍ぶ場所)と翻訳されました。この世が苦しみの世界なら、生きてゆく意味や甲斐など、ありゃしないと思う人は少なくないと思います。釈尊は、その苦しみの世界の原因となっているものが、私たちの「とらわれの心(煩悩)」だと教えられました。仏教とはそのとらわれの心をなくし、幸せの実感を得て生きる教え、と言い換えることができます。しかしその迷いの心を失くすこともできない私たち、当たり前の人間(凡夫(ぼんぷ))は、仏さまに救ってもらうほか、真実の苦しみからの救済は得られません。

●マイナスを転じた「有難さ」
 なに不自由なく生活している日常には、感じられなかった幸せを、マイナス「負」の体験をするところから感じることができることが、しばしばあります。病気一つしない健康な生活を送っていた人が、病気を得ていのちの危機というマイナスな出来事に出会って、今まで感じることのできなかった「いのち」をいただいている、それ自体に対する「有難さ」を初めて感じたという人は多いものです。また人生の苦難や悲しみに出会って、今まで平穏無事に過ごしてきたことを、初めて「有難く」感じたという例も同様です。当たり前のように過ごしていることが、実は非常にかけがえのない稀有な出来事であることに気づかされることを「有ることが難しい」「有難い」と私たち日本人は表現してきました。そしてそれを実感するのは、人によって異なるものです。「幸せ」とは「有難さを実感すること」と言い換えることができるのではないでしょうか。

●お念仏から始まる幸せ
 人が生きる中には、人の力ではどうしようもならない出来事に出会わなければならないことがあります。突然の事故や死との出会いは、その代表的なものです。何もない穏やかな日常の中で、突然の死は音も立てずにやってくるものです。

 いつものように夜の時間を過ごし、お休みの挨拶を交わし、眠りにつく。翌朝、なかなか起きてこない家族に、心配して寝室を尋ねると、すでに冷たくなって横たわった姿に出会う。このような死の様子は、住職をしていると年に一度、二度、必ずと言っていいほど遭遇する事例です。別れの挨拶も交わすことなく一生を終えた家族の死に、呆然とする家族。高齢者とは限らず、若い方々の中にも、こうした死の場面にしばしば出会います。遺族も私たち僧侶も、こうして亡くなった人に何をしてあげることができましょう。何もすることができない、死を前にしたその中で「いのちが終わる」のではなく、仏の世界、極楽浄土へ「いのちが生まれていく」ことを願い、祈ることしかできないのではないでしょうか。極楽浄土の御仏・阿弥陀仏と諸菩薩の確かなお迎えを願い「なむあみだぶつ」と称えることしか、私たち当たり前の人間にできることなどありません。まさにそこから仏の世界にいのちは生きて、始まっていくのです。浄土宗を開かれた法然上人は、眠る前に十念を称えることをおすすめになりました。このことをお伝えすると、家族は御仏の世界に「いのちのある」ことに有難さを感じ、死のもつ「終わり」というマイナスのイメージを転じ、御仏の世界に「生まれ、生きる」という有難さを、深い共鳴と感動とともに感じていただくことができるのです。まさにいのちの営みに、お念仏から始まる有難さ、幸せを感じることができると信じられます。

 今年は、新しい時代を迎えます。たとえ世の中がどんなに移ろい変わろうとも、変わることのない心といのちの平穏を願い、お念仏を称えることから有難さを、幸せを実感して生きてまいりましょう。                        合掌 十念

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