「育てて頂く」
笠原泰淳(八王子組林海庵)
2ヶ月ほど前のことになりますが、私の師僧である源譽芳清上人の七回忌法要がありました。
私はいわゆる在家出身でありまして、中野区貞源寺の檀家でした。(現在もそうです。)今から20年ほど前、当時住職であられた芳清上人に弟子入りをお願いに上がったのです。
上人は、「笠原君。僧侶になるよりも、学校の教師になって若い人たちに宗教教育を施すことを考えたらどうだろうか。人間、年を取ってから学ぶのは難しいからね。宗教も同じだと思う。若い世代への宗教教育が重要なんだ。」と言われました。 今振り返りますと、当時上人は40歳過ぎ。熱意にあふれていましたが、それだけに寺院における教化活動の難しさを実感しておられたのではないかと思います。成人ではもう遅い。若い人たち、まだ頭の柔らかい人たちに宗教を説きなさい…。
しかし私は学校に勤めるのではなく、僧侶として生きてゆきたいと思っておりましたので、「そこを何とか」と無理をお願いし、入門を許して頂きました。
お念仏の教えに惹かれて浄土門に入れて頂いた私─学べば学ぶほど、また経験を積めば積むほどにその教えの素晴らしさを実感することになりました。僧侶も檀信徒も一つとなってお念仏の声の中に浸る…そこには優劣なく、余分なはからいもいりません。老いも若きもありのままの姿で、煩悩具足のまま、裸のままで阿弥陀さまの世界と直に触れることができます。
「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」
という法然上人の一枚起請文。何と驚くべき教えでしょうか。亡くなられる二日前にして、この力強いお言葉です。獅子吼というのは正にこのことか、と唸らずにはいられません。
他にも多くのことを師僧の元で学ばせて頂きました。
あるとき師僧がこう言われます。
「寺の住職は、檀信徒が育ててくれるものだ。」
そのときは何のことかよく分かりませんでした。住職─僧職にある側が、みずから学んだこと、修行から得たこと感じたことを檀信徒に伝え、檀信徒を育てていく、そのように思っていました。檀家が御布施を納めた上に住職を育てる? それが最近「ははあ、このことを言われていたのかな」と思うようになりました。
私の寺は、宗門の開教施策のもとに開かれた新しい寺院です。5年前までは賃貸の施設で活動しておりました。そのときのこと、「いずれは小さくても独立した建物、お寺が建つといいのだが」という話を信徒さん方としていたところ、ある人が「そうですねえ、それは夢だわ。でも私が生きている間はとても無理でしょうね…」と言われたのです。当時の状況としてはまったくその通り─土地建物を入手することなど夢のまた夢だったのですが、この嘆息は私の胸に深く刻まれました。それからほどなく、寺院にふさわしい良い場所が見つかりました。とても不可能と思われた資金のめども立って、状況が一気に動き始めたのです。
先の信徒さんのひと言が、私を後押ししてくれたのです。
寺の行事についてもそうです。「写経会をやりましょう」「ぜひ花まつりを」という信徒の皆さんの声が後押しとなって実現し…否、そうした声の後ろから私が「ちょっと待って下さい」と言い、ふうふう肩で息をしながらついて行っている、というのが実態です。これが「檀信徒に育てて頂く」ということなのでしょうか。
「いや、少し分かったつもりになっているようだが、笠原君もまだまだダメだな。」 師僧のそんな声が聞こえてくるようです。