「『経典』と親しむ」
林 純教(城西組来迎寺)
経典の真実性は、その『経典』と翻訳された原語自体の中に包括されております。言うまでもなく、その原語は本来的には縦糸を意味するサンスクリット語sutraであるわけでありますが、古今に亘り不変的な基準というものを示すものでもあります。
さて、私たち日常の生活、格別意識もしない普通の会話のなかに、この『経典』から出た言語或いは慣用句がいかに多いかあらためて考えてみたいと思います。
例えば、どなたでも大人であれば必ず一度は使った経験があるであろう『娑婆はきついなあー』という言葉。『ほんとにきついよ』なんて思わず相鎚を打ちたくなってしまうのは私だけではないと思うのですが。ともあれ、この『娑婆』という言葉、もちろんこのややこしい『漢字』には意味はありません。サンスクリット語『saha(aの上に‐あり)』或いは『sabha(aの上に‐あり)』の音写とされており、釈尊は私たちが日常生活している、この物心両面の世界を『この世はsaha(aの上に‐あり)である』或いは『この世はsabha(aの上に‐あり)である』と述べられたとされています。
前者の場合は『娑婆』は『苦痛』の意味で『この世は苦しみである』の意となり、覚者釈尊は我々の何事にも浮かれ騒ぎ狂喜している世界を、その冷静沈着な眼で当初からその本質を『苦』と観じられたのであります。後者の場合は『娑婆』は『集まり』の意味で『この世は多くの人々の集合体である』の意となり、この世はわが一人の世ではなく一切のものが共に共存している世の中であることを示したものであることが分かります。両者の解釈、共にそこに覚者釈尊の偉大なる叡智を感得できるのであります。
このように我々に身近な言葉『娑婆』という言葉一つ取ってみても、それが由来する経典に遡って探求して参りますと、正に『教典』の示す永久不変の真理に出会うことができるのであります。是非共々に同じ仏教徒としてこの『教典』という我々の精神の拠り所に親しんで参りましょう。