浄土宗東京教区教化団

平成22年7月「お盆を迎えて」藤井正史(玉川組月影寺)

fujii

 

 「お盆を迎えて」

 藤井正史(玉川組月影寺) 

 

 今年もお盆がやってまいります。
 お盆は、遠いご先祖さまから多くの思い出を共有して逝った家族まで、一年に一度ご自宅にお迎えする大切な時間です。また、離れて暮らしている子供たちが生家の親元に集まり、ご先祖さまや亡くなった家族に元気な姿を見せ、感謝の気持ちと共に過ごす期間でもあります。
 お盆は旧暦の7月に行われていましたが、明治5年より現在の新暦となってからは、 全国的に八月の月遅れのお盆が行われる地域が多くなりました。偶然ですが、ちょうどこの時期は、昭和二十年八月六日広島、九日長崎の原爆記念日、十五日の終戦記念日と時期が重なっており、毎年8月が慰霊の季節となっていることも、お盆が私たちの季節感に根を張ってる理由の一つかと思います。

 私は東京で住職をしておりますので七月のお盆をお勤めしていますが、当寺の檀信徒のなかには、地方に勤めている家族が帰京できるのは八月のお盆休みだけだということで、八月のお参りをご希望される方もいらっしゃいます。私自身は長崎で親類を亡くしているので八月九日を迎えると、今年もこの日がやってきたのだなぁと、旧盆のお迎えに気持ちが向かいます。日本のお盆は、推古天皇十四(西暦六〇六)年より行われており、たいへん長い歴史があります。長い年月のなかで、多くの人が同じ思いを胸にこの暑い季節を過ごしてきたのでしょう。 
 近年は、お正月の門松を飾らないお家は増えてきましたが、梅雨時になると、近隣のスーパーでは必ず「お盆の精霊棚セット」が数種類並びます。中には麻菰やおがらが入っており、胡瓜の馬や茄子の牛までついているものさえあります。初めて見たときは驚きましたが、時代は変わっても、お盆を迎える人々の気持ちは変わらないのだと思います。お盆を詠んだ句に、このようなものがあります。

青菰の上に並ぶや盆仏

 幼い頃から家族を亡くした悲しみとともに生きた小林一茶(一七六三~一八二八)の句です。一茶は信濃国(長野県)の農家の生まれで、三歳で生母を亡くし、貧しい生活のなかで育ちますが、継母との対立から十五歳で江戸へ奉公に出て俳諧の道を志しました。五十代になってようやく、二十代の妻・きくと世帯を持ちます。次々と三男一女の子宝に恵まれるものの、四人ともみな幼くしてこの世を去ってしまいます。一茶が子供の頃から夢見たであろう、新たに始めた幸せな家庭は、すべての子供を失った後、あろうことか妻にまでも三十七歳の若さで先立たれて終焉を迎えました。家族全員を失い、一人取り残された一茶の悲しみはいかばかりであったでしょう。やっと手に入れたかに思えた家庭のぬくもりは、一茶にとって儚い夢でしかありませんでした。その後も再婚した妻とは半年で離縁し、晩年に再々婚した妻との間に子が生まれたのは、なんと自らがこの世を去った翌年のことでした。

 私は小学生の頃、毎年、お盆の前に母の実家である長野市のお寺から、祖父の生家のあった新潟まで墓参りに出かけましたが、決まってその帰りに北国街道近くの一茶の旧宅に寄りました。旧宅は国史跡に指定されていますが、立派なお屋敷ではありません。
 一茶は幕末の文政十年閏六月、柏原宿の大火事に遭い、焼け残った土蔵に移り住んでいたのです。その年のお盆には、一茶はこの土蔵のなかで子を失い弔う逆縁の悲しみ、連れ合いを亡くした悲しみ、家族全員に先立たれた哀しみを心に抱いて精霊棚を設え、亡くした家族を迎えたのです。盂蘭盆にしつらえた精霊棚(盆棚)に並んだ多くの位牌を眺めこの句を残しました。自分の寿命の尽きる時を見据えて詠んだのでしょう。十一月になると、六十五歳で亡くなりました。
 
 当山では、昨年も、赤ちゃんから90歳を超えるおばあちゃんまでの新盆の御回向を、それぞれの思いで迎えられたご家族と共にお勤めいたしました。
 お釈迦さまの説かれた四苦八苦の一つ、「愛別離苦」という愛する者と別れねばならない苦しみは、誰しも避けることができません。そして、家族を失った後も日々の生活は続き、残された者は自身の寿命を全うするまで、その苦しみを背負って生きていかねばならないのです。今年の夏も一茶の句のように、精霊棚に位牌を並べ、亡くなったご家族を思ってお盆を過ごされる方が多くいらっしゃることと思います。 

 お盆は、懐かしい家族やご先祖さまをご家庭に迎え、授かった命・生かされている命に感謝し、いつかは迎えれらる側になる自分という存在を見つめ直す時間でもあります。貪りに囚われることなく、きちんと生活している姿をご先祖さまに見ていただける、まことに有り難い期間であるとお思いになって、お念仏をお称えください。南無阿弥陀仏