浄土宗東京教区教化団

平成22年10月「我が身の程を信じて」宮入良光(城南組栄閑院)

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  「我が身の程を信じて」

 

   宮入良光(城南組栄閑院) 
 

  

 先月大団円を迎えたNHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」。すっかりお茶の間のお馴染みとなった水木しげるさんは、幼い頃に近所のお寺で見た地獄極楽図によって、強く「あの世」に興味を持たれたそうです。目に見えない妖怪達、そして生とは、死とは何かを追いかける背景には、「あの世」の確信があったわけです。

 皆さんはいかがお考えでしょうか。「あの世なんて無いんだ」、「死んだら何となく良いところに生まれるんでしょ」、それとも「死んだら皆ホトケ」でしょうか。はっきりと自身の行く末を見据えておられる方は、思いのほか少ないものです。
 仏様のお示しでは、間違いなく生と死は隣り合わせです。「生死」と書いて「しょうじ」と読みますが、つまり、この世に生まれたということは、前の世で命を終えたということ。この世で命を終えるということは、どこか次の世に生まれるということです。そしてこの「生死」の繰り返しから抜け出せないから恐ろしいのです。

 中国唐時代の善導大師という方はおっしゃいました。
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し」

 この私という人間は、悪業を重ねて罪深く、無数の生死を繰り返してきた愚か者である。一度としてこの迷い苦しみの世界を抜け出る縁に出会うことは無かったと。当時、「阿弥陀如来の化身」とまで尊ばれた善導大師が、ご自身をこのようにおっしゃったのです。いかにいわんや我らをや。私たちは、自分だけは生き残りたいという欲望に振り回され、罪を造らざるを得ない存在です。認めたくはないでしょうが、被害者を放置し自己保身に走った押尾被告の事件は、誰もが持つ人間の欲望をまざまざと見せつけました。この姿を、我が身に置き換えて考えなければなりません。きれいごと抜きにはっきり申し上げれば、我たちは死ねば地獄に堕ちてゆく身だということです。
 
 この「我が身の程」を深く受け止めねば、お念仏を有り難く頂戴し、しっかりお称えすることはできないのです。善導大師のお言葉を受けて、宗祖法然上人は次のようにおっしゃってます。
「始めに我が身の程を信じ、後には仏の願を信ずるなり。ただ後の信心を決定せしめんがために始めの信心をば挙ぐるなり」
 阿弥陀様は私たち人間が地獄に堕ちていくのをどうしても見捨てては置けなかった。だからこそ極楽浄土を構えてくださり、「我が名を称えよ。念仏申せ。必ず救い摂るぞ」と手を差し伸べてくださるのです。
 まず「我が身の程」をしっかりと受け止め、「助けたまえ、阿弥陀仏よ。南無阿弥陀仏・・・」と日々お念仏申す。そして命終わった時には間違いなく極楽浄土へ迎えとっていただく。このような方を、阿弥陀様、お釈迦様、善導大師、法然上人は心から喜んでくださり、真の仏弟子と讃えてくださるのです。
 どうか共にお念仏をお称えしてまいりましょう。南無阿弥陀仏