「決定往生のおもいをなすべし」
金子一俊(城北組仮宿院)
先月、世界中に報道された「チリ鉱山落盤事故」の救出作業。70日間も地下に閉じ込められた33人の作業員がフェニックス(不死鳥)と名付けられた救助カプセルにて一人ずつ救い上げられ、家族と感動の再会を果たしたシーンは、世界中の感動を呼びました。皆さんもまだ記憶に新しいと思います。
全員が救出されてからは、インタビュー責めや映画化などと騒がれておりますが、徐々に漏れ聞く話によりますと、救出されるまでの地下生活で、生存者が確認されるまでの17日間は、助かるかどうかも分からない中で、唯々死を覚悟するしか出来ない壮絶な精神状態に追い込まれ、僅かに残った缶詰や賞味期限の切れた牛乳の分配方法について揉め事が起こり、時には殴り合いになることもあったそうです。
今回の救出シーンをみて、私はふと芥川龍之介によって書かれた短編小説である『蜘蛛の糸』(くものいと)を思い出しました。不適切な表現かもしれませんが、救出されていく作業員の方々が、ワイヤー1本で救い上げられていく有様は、まるで主人公のカンダタ(犍陀多)という生前に様々な悪事を働いた泥棒でありながらも、一度だけ善行を成した事から地獄から救ってやろうと蜘蛛を使い、1本の糸を地獄に垂らして下さったお釈迦様の心を見ているように感じられたのです。
中国・唐時代の善導大師は『観経疏』に、このようにおっしゃります。
「我らが如き、未だ煩悩をも断ぜず、罪をつくれる凡夫なりとも、深く弥陀の本願を信じて念仏すれば、一声にいたるまで決定して往生す」
我々(私)人間は煩悩にまみれて罪を犯し、その煩悩を断ち切る事ができず、生死の迷いの世界をさ迷い続ける凡夫ではあるけれど、深く深く阿弥陀さまの本願を信じて念仏を申させて頂ければ、一遍のお念仏までも必ず往生が願うのですと。中国浄土教の大成者である善導大師をしても、自身を迷いの世界から離れようにも、その縁すらない身(凡夫)であると仰せになり、そんな自分が救われるには阿弥陀さまのお誓いにすがり、御名を称えさせて頂くしかない。
しかし、それにはまず我が身の程を省みることが大切なのです。
(先号の宮入上人の法話を参照下さい。)
「蜘蛛の糸」のカンダタは自分だけが救われれば他はどうなっても良いと自分だけ地獄から抜け出そうとする無慈悲な心を持った為、糸が切れて地獄に逆戻りした訳ですが、チリ鉱山落盤事故での閉じ込められた作業員達も初めに喧嘩が起きてしまったのは、やはり「自分だけは助かりたい」という欲望が故ではないのでしょうか?
(※生存確認後、作業員に安堵感が生まれ、友情と団結力が強まり、お互いに励まし合い、相手を思いやる助け合いの精神が奇跡の救出につながったのだそうです。)
又いざ自分がその立場に置かれたらどうでしょうか? 誰しも自分だけはと考え、人を蹴落としてでも・・・と簡単に罪を造ってしまう・・・そんな罪多き我が身なのではないでしょうか?決して他人事ではなく、地獄行きが決定されている我が身なのです。
そんな我が身をしっかりと知り、こんな自分でも救われる方法を用意して下さったのが阿弥陀さまなのです。宗祖法然上人も消息の中に
「煩悩の薄く濃きをも省みず、罪障の軽き重きをも沙汰せず、只、口にて南無阿弥陀仏と称えば、声につきて決定往生のおもいをなすべし」と仰せになり、煩悩や罪の程度にかかわらず、とにもかくにも「南無阿弥陀仏」と申し申させて頂くそのひと声、ひと声に必ず極楽往生が叶うのだと。
「我が名を称えよ、必ず救う」とお誓い下さり、いつでも私達の声に耳を傾けておられる阿弥陀さまに、臨終の時には間違いなく極楽浄土にお救い頂ける様に日々のお念仏をお称えしてまいりましょう。
南無阿弥陀仏
~阿弥陀仏と 称えし声に 糸は切れまじ
決定往生 まさに我が為~