浄土宗東京教区教化団

平成23年12月「気付かせていただく」野村恒道(芝組常照院)

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  「気付かせていただく」
  野村恒道(芝組常照院)

 早いもので浄土宗の月訓カレンダーも最後の一枚を残すのみになってしまいました。今年も流行語大賞や、今年の漢字が選ばれています。候補の中からあれがいい、いやこっちがぴったりだ。人さまざまな意見が聞かれます。そうした時に皆この一年を振り返って、誰しもああもう今年も終わりかと、それぞれの感慨にひたっていることでしょう。

今年、我々は法然上人の800回忌をご回向させて頂いたわけですが、799年前に遡ると、その一周忌を目前とした建暦2年(1212)の今頃、お弟子の源智上人は法然上人を失ったその1年をどのように受け止めていらしたのでしょうか。師の恩徳に報いる為に大勢の勧進を募り、三尺の阿弥陀如来像を造立して、暮れの12月24日には、その胎内に4万6千人以上もの結縁した人々の名前を書き連ねた結縁交名状を封入しました。そして皆が法然上人の教えによって阿弥陀様に救われ、極楽に往生できるよう願文を認めました。そうした善行が、先だった師の御心に沿うものであると確信したからです。長年に亘り、常に師法然上人のお傍に仕えた源智上人ならでの報恩行と申せましょう。

しかし、親であれ師匠であれ、既に往生された人々の思いを受け止めるのは容易なことではありません。先だった御魂の思いは、月の光の如く常に我々の方に照射をされている筈ですが、それに気付かずに過ごしている日常です。そしてそれに気付く時は、心にある水鏡に月を映すがごとくです。夜空に煌々と照り映える月の姿は、海でも川でも、はたまたその辺の水たまりにまで映ずることがあります。しかしこれを心の水鏡に映すのは至難のことです。我々の水鏡は普段忙しさにかまけ、煩悩にさいなまれて、得てしてその水は濁り、ゴミが浮いている、ぶつぶつと不平を言うがごとくあぶくを吹いている、波風が立ってその水面は一向に落ち着かない。こうした我々の常日頃では、そこに映しだす月の姿は醜く歪んだものにしかなりえません。

仏壇やお墓やお寺にお参りする。ひと時端坐合掌しお念仏に浸る時を持つ。そのような静寂な時を得て、ヘドロやごみを取り除き、油をうったような明鏡止水と言われる水面をわずかな時間でも作り出してみる。初めてそこにはくっきりとした美しい月の姿が映り、いつもは気がつかない窪みや影など、決して一様ではないその細部に改めて気づくはずです。他人の思いも同様です。今まで自分はこうだと思っていたことが少し違う、こういうこともあったのかと驚くこともしばしばです。
いつもはなかなか気付かないままに過ごしてしまう、まさに我々は凡夫であり、真理に暗い無明長夜の暗であることを思い知らされます。

晦日(みそか、つごもり)とはもともと暗い日という意味が有りますが、つごもりはつきごもり(月隠もり)の転じたものです。月のない日は暗い、朔の前の月明かりのない日は晦日です。その一年最後の晦日である大晦日(おおつごもり)も、もうわずかです。夜も夜明け前が一番暗いといいます。しかし本当に暗いときにはもうすでに夜明けは目の前なのです。希望は膨らむばかりです。そして一条の光はたちまちに闇を切り裂きます。

今年は大震災や原発事故、そして経済不況などなど震撼とさせられること、不安が募ることの多い年でした。しかし新しい年も間近です。そして年が明ければすぐに法然上人の801回忌を迎えることになります。源智上人が法然上人の1周忌に多くの人々にお念仏の功徳を振り向けて、法然上人亡き後の新しい時代に対処したように、我々も法然上人のお念仏の恩徳をかみしめつつ、800年大遠忌の後の時代に備えなければなりません。皆様ご健勝で良きお年をお迎え下さい。        合掌