浄土宗東京教区教化団

平成24年1月「母ありて・・・」武智公英(豊島組定泉寺)

takechi


「母ありて・・・」

武智公英
 (豊島組定泉寺)



 東京教区教化団副団長の藤井君からの携帯が鳴った。取ると法話原稿の依頼である。『新年1月の担当が豊島組さんなんですよ~、法話よろしく頼みますよ~』『え~誰がいいんだろう~』と私。すると『もう時間もないし、武智さん頼みますよ~』と副団長。『法話なんて書けないよ~』と私。『いやいや武智節でいいですよ~』と副団長。ならば法話ならぬ『放話』でお許しいただきたい。

 その電話から、一週間以上過ぎた今日は12月10日、土曜日未明午前3時である。私は寺の2階寝室で、病身の母の介護ベッドの下で寝ている。膵臓癌末期の母に付き添っているのだ。母の深い呼吸を聴きながら書いている。何度も酸素吸入器のマスクを手で払うので直さなければならない。やがて『このマスクを払う力もなくなるよ』と親身に往診してくれる友人の石田先生に言われた。彼は中一の時に、当時35歳の母親を看取った。それから医者を志したのだ。子供の頃、うちに遊びに来ると、お袋が料理し一緒に食べた。母への往診は我々のプチ同窓会なのだ。Dr石田の母は女子医大のICUに入院していた。危篤の母親に触れる事が出来たのは、最後の1日だけだったらしい。その様な体験から今回の在宅医療に力を入れてくれる。

 あれ、母の呼吸が聞こえない。慌てて顔を見る…大丈夫だった。…もしかすると、今夜旅立ってしまうかもしれないのだ…。

 あまりに私は親不孝だった。結婚したのも昨年の4月、歳も50を有に回っていた。区役所の夜間窓口に二人で婚姻届を貰いに行ったら親娘に間違われたのだ。『お嬢さんおめでとうございます』と。無理もない、区役所の窓口は、改葬届しか縁がなかったのだから。ホント母には待たせ過ぎた。
 住職になって30年となるが、葬儀に車で急ぎ、首都高速錦糸町のオービスに60キロオバーで撮られてしまった。ゴールド免許だつた私は、一転免停住職となった。所轄の第7交通機動隊から呼び出しが来た。証拠写真から、お坊さんとわかり、至極丁寧な警察の応対であった。
 取り調べの最後に、『ご職業は?』と尋ねられた。法衣姿の証拠写真を指差し、『これで会社員とは言えないでしょう、僧侶です』と私。すると取調官は『こうですか・・・僧呂!』。私は『人偏が抜けてますよ、ソーローじゃないですから…』。警察の部屋は大爆笑となり、帰る時は、よっぽど楽しかったのか、警察官が二人も玄関まで見送ってくださった。『運転は歩行者警察、確認し』

 母は昭和5年1月2日に祖父の駐在先の中国上海の西で生まれた。だから名前を『要』と言う。母はΓ男の子の名前だから嫌だった」と言う。固いし・・・。しかし、そのお陰で先代父亡き後36年間、正に寺の要として定泉寺を守ってこれたのだ。
 私が4歳の時、五重相伝会を奈良の野島先生から受け『最譽』を頂いている。念仏信仰のスタートである。母、9歳の時より裏千家の茶道を学び、教授としてその教えを広めていた。すばらしい先生が身近に居ながら、私は全くのΓ何にも千家」の家元であった。つまり、お手前頂戴しか母の前ではして来なかった。遅かった・・・。
『親孝行、したい時には、親はなし』

 77歳の時、持病の高血圧から脳内出血で倒れ、車椅子の生活となった。お茶のお手前も出来なくなり、『早くお父さんのところへ行きたい』と言う事もあったが、よく食べた。
『夫待つ、浄土を願い、飯を食う』
これを詠んだら、『失礼ね!』とよく笑ってくれた。

 右半身麻痺となり、赤ちゃんも抱けなくなったけど、それでも私どもの子どもを抱きたいと言ってくれた。先週の土曜日、産科医の従兄弟のおかげで来年4月8日の花まつりに、女の子が生まれることがわかった。名前も決めて母に知らせた。
『真央』、旬な名前である。彼女のお母様も48歳の若さで旅立たれたことを報道で知った。
 私は母の両手のひらの手形を採った。この両手の色紙の上に真央を抱かせるつもりである。

 時計は午前5時を回った。母の呼吸が荒い。
 来週12月16日は父の命日である。10日前に母を施主にとして枕元で37回忌を勤めた。総代さんも駆けつけてくれた。

 まだ話せる時、母はこう言っていた
 『お浄土に行ったら手を振るから…』と、
 そして父の声が聞こえた。
 『かなめ、もう頑張らなくてええよ…』と。                                
                                合掌
                   
                          
(この寄稿1時間後の12月10日午後11時50分母はお浄土へ旅立ちました。享年81歳)