浄土宗東京教区教化団

平成24年3月「到彼岸」戸松秀明(北部組浄閑寺)

jokanji_s


「到彼岸」


戸松秀明 (北部組浄閑寺)

 昨年は宗祖法然上人の八百年大遠忌(大御忌)の年で、一宗をあげ大遠忌の準備を進めてまいりました。図らずも、3月11日に東日本大震災が発生。テレビに映し出される倒壊した家屋や、街並みの惨状、想像を遥かに越える津波の恐ろしさは、今も脳裏に強く焼き付けられる程で、被災なさられた方々に対する配慮もあり、各総・大本山では日延べして大遠忌を実施することになりました。

 そうしたなか、連日の大震災の報道の合間に、テレビ・ラジオではAC放送機構の「心は見えないけれど、心遣いはだれにでも見える」「思いは見えないけれど、思いやりはだれにでも見える」というCMメッセージが繰り返し流されていました。
 画面では、「男子学生が、電車にのっている時に、座席を通りかかった妊婦さんに譲ろうか躊躇している間に、別の女性が座席を譲ってあげる」「階段の下で、お婆さんが一息ついて、これから階段を上がろうとするところに、男子学生が通りかかり、荷物を担い一緒に階段を上がってあげる」
 字幕スーパーには、宮澤章二「行為の意味」とありましたが、釈尊の説かれた無財の七施の「床座施」(座席をお年寄りや身体の不自由な方に譲ってあげる行)と「捨身施」(自分の身体や労力で何か人に喜ばれることをしてあげる行)と受け止めたものです。

 だれもが「たいへんなことになった。何か出来ることはないのだろうか」と、心で思ったものです。現実には、だれでも被災地に赴きボランティア活動が出来る訳ではありません。日頃から「何か出来ることはないのだろうか」と思っていればこそ、釈尊の教えと考えなくとも、大切な「行為」で、何か「意味」のあることをしたいと思うのです。足りない物資や義援金へ協力し、沢山の善意が集まりました。「大停電にならないよう」との呼びかけに、計画停電や節電に協力が出来たのです。

 早いもので、大震災から一年が経過します。三月は春の彼岸です。彼岸には釈尊が示された六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を実践して彼の岸である彼岸(仏国土)へ到る修行をする期間とされています。人々は仏教を信仰し、修行をする思いで、あるいは、信仰心もなく、修行する思いなど毛頭なくとも、墓参りへ行き、花や線香を手向け、墓前に手を合わせ、感謝の誠を捧げます。それは、先祖に対する思い「意味」が、墓参りをする「行為」に現れているのかもしれません。

 また、法然上人は、称名念仏ー南無阿弥陀仏、と念仏をいつでもどこでも称えることにより、彼岸である西方極楽浄土に往生できるという教えを示されました。わたしたちは、いつ、どのような形で死が訪れるか量ることが出来ません。その時が、必ず来ることを日頃から意識し、自覚して生活することが肝心です。そうすると、西方極楽浄土に往生するために、今何を心掛け、どう生活したら良いかが見えてきます。「自分も、いつか死ぬ時が来る。死んだら、両親・祖先のいる西方極楽浄土に往生したい」と、心に思い、そのことが叶うよう、いつでも、どこでも念仏を称える生活を継続することです。
 
 3月11日には、東日本大震災で亡くなられた物故者諸精霊の一周忌追悼法要・式典等が全国各地で勤められます。そして、一日も早い復興を心から祈念するものです。 
 合掌