「終活・・・について」
北條雅道(城南組西應寺)
“終活”なるテーマのテレビ番組を視聴致しました。学生の就職活動、略して就活(しゅうかつ)をモジった造語です。言葉の意味はそのまま、人生の終わりに向けた活動です。これまで仕事などを懸命に勤められた方が、退職などを機に自分の人生を考える、非常に大切なことなのだと思います。
ただ、少し気になったことがあります。それは「自分の子孫に負担をかけたくないので、所謂 先祖代々の〜家之墓には入りたくない」「子どもたちに迷惑をかけたくないので、自分の世代だけで完結できるものにしたい」という方々の意見が多く取り上げられ、それに賛同する声が多かったことです。
自分なりにしっかりとした死生観や価値観をもち、ご家族と葬儀やお墓の話をされた上で、そのような選択をされる場合は結構なこととは思いますが、子の負担の軽減の為、個人墓へ入りたいという安易な選択は違和感があります。
先日、拙寺では50回忌の法要が参列者30名で執り行われました。まさに半世紀。故人を知らない、孫、ひ孫世代まで参列されておりました。「人は二度死ぬ。一度目は肉体の死、そしてもう一度は、自分を知っている人がいなくなったとき」という言葉があります。自分が死んだ後も、自分の事を知っている、慕ってくれる人がいる、本当に素敵なことです。人は人によって生き生かされます。もちろん、親子の関係性だけで成り立つわけではありませんが、しかし、ここに自分が存在する根本的な原因は親、ご先祖の存在であり、先祖なくして自分は存在しません。何よりもかけがいのないもの、それが血縁の関係とも言えると思います。
※釈尊の涅槃図に、先に亡くなられた釈尊の母マーヤ夫人を描くことが多いです。
自分が亡くなったあとも、それを引き継いでくれる者がいること。そのことが「負担をかける」こととは言い難いです。もちろん、負担がない訳ではありませんが、しかし、親や先祖という存在、恩徳を知る事のできる価値は、その負担を上回ると思います。「子どもに葬儀や墓の負担をさせない」と胸を張ることよりも、「万が一のことがあっても葬儀やお墓のことは心配しないでいいよ」と言ってくれる子どもがいることの方がよっぽど自然で誇らしいことではないでしょうか。
50回忌をわざわざ勤めなくてもいいのかもしれません。しかし、故人がなくなり半世紀経ち、その子、孫、ひ孫が一同に会し、関東大震災の話、当時の仕事の話など若い世代が全く知り得ないことを、見聞きする事はこの上ない貴重な時間であると思います。
迷惑をかけずに生きて行く事はできない、だから、昔の人は「お互い様」を口癖に生きてきたのでしょう。それが、いつからか「自己責任」という言葉がもてはやされ、自分の子供にさえ迷惑を掛けない、そんな不自然な親子関係を強いる社会になってしまっています。
自分らしい最期、終活を考えるよりも、自分らしい生き方(生活?)から自ずと自分を慕ってくれる人間関係を構築していくことの方が、よりよい最期、生き方ができるのはないでしょうか。終活よりも、先ずは今自分の生活の中でいろいろな方の縁を感じながら「お互い様」敬意の念を持って生きていきたいものです。
合掌