浄土宗東京教区教化団

平成24年12月「だんだん一年が短くなる……」村田洋一(芝組最勝院)

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 「だんだん一年が短くなる……」

  村田洋一(芝組最勝院)




 平成と年号が改まって24回目の師走がやってきました。今年もあと一か月です。
 この一年、どんな一年でしたでしょうか。一年を振り返ると光陰矢の如し、「えつ、もう12月、今年も終わり!」と一年が短かったと思う方が多いのではないでしょうか。どうも私たちは何歳ぐらいからなのでしょうか、一年がどんどん短くなってくるようです。

 若い頃は、何をしてもどんな事もみんな初めての事ばかりですから、それは新鮮な毎日ですし行動範囲も広がる一方、出会う人もみな刺激的で、一日24時間がそれこそ感動に溢れ、一年も長かったはずです。それが、年を追うごとに早く過ぎていくようになってきます。かくいう私は50代半ばですが、「一年が早くて……」などと諸先輩に言うと、「何を言ってる、歳を取るともっと早くなるぞ、まだまだ」などと言われますが、十歳ぐらい後輩に、「もう一年経ちましたね、早いですね」などと言われると、やはり先輩と同じ言葉を繰り返す自分がいます。

 法然上人は43歳の時に浄土宗をお開きになったので、浄土宗では43歳までのお坊さんは青年会の会員です。四十面下げた青年会員といったら、お寺さん以外の方はびっくりされるでしょう。私もその青年会員でしたが、十余年経った今そうした会合に顔を出すと、もう大先輩で上座に座わらされるは、長老と呼ばれるは……。自分の中ではついこの間まで青年会員だったはずで、長老と紹介される人は別世界の人だったのですが……。そう、一年どころか十年もあっという間です。

 振り返れば、学校生活、仕事や家事といった日常生活、初詣、節分や夏休みといった年中行事、友人の結婚式や初めての葬儀や法事といった人生儀礼、同窓会や地域の集まりといったイベントと、人生は色々盛り沢山ですが、どんなことも最初は胸を躍らせ緊張し、時には待ち遠しさもあったはずです。それが、同じ事を繰り返すうちに段々「慣れ」てきてしまいます。そうすると、一年が「慣れ」た物事の積み重ねになりますから、「あっ」という間に過ぎてしまうことになるのでしょう。

 さて、法然上人のこんな言葉があります。
「(前略) 日々に六万遍七万遍を唱えば、されも足りぬべき事にてあれども、人の心ざまは、いたく、目なれ、耳なれぬれば、いらいらと、すすむ心すくなく、あけくれは、そうそうとして、心閑(しず)かならぬ様にてのみ、疎略になりゆくなり。その心をすすめんためには、時々別時の、念仏を修すべきなり (後略)」

 法然上人の魅力は何と言っても人間への優しさですが、それは誰もが持つ愚かさやむさぼりといったものは残念ながら修行を積んでもどうも消し去ることはできないようだ、それが人間というものなのだ、と気付かれたことです。その法然上人が、毎日何万回もの念仏を唱えられればいざ知らず、私たちは慢心しやすく、いつの間にか日々の念仏さえ疎かになってしまいがち、だから特別な時間を作って念仏を唱えなさい、とおっしゃったのがこの別時念仏を勧める言葉です。そして、この日々の念仏を疎略にしてしまう慢心ですが、この慢心もやはり「慣れ」から生まれてくるものです。

 もちろん「慣れ」が悪いことばかりではありません。「熟練」と言い換えたら価値が180度変わります。ですが、マンネリにつながっていく「慣れ」は余り嬉しくないもののようです。一年が終わる12月、短かく感じたこの一年が「慣れ」のせいで短かったとしたら、来年はこの「慣れ」を意識して過ごしてみるもいいですね。仏教は気付きの宗教です。「慣れ」を受け入れても、あるいは立ち向っても、どちらにしろ平成25年は「慣れ」を意識し続ける一年にしてみてはいかがでしょう。