浄土宗東京教区教化団

平成25年2月「つもれる罪ぞ やがてきえぬる」麻谷尭正(浅草組泰寿院) 

asatani

 「つもれる罪ぞ やがてきえぬる」

  麻谷尭正(浅草組泰寿院)




 「地球温暖化」といわれるようになって久しくなりますが、東京でも冬はやはり寒いもの。お参りにみえるお檀家さんたちとのご挨拶も、ついつい「今年の冬は特別寒いような気がしますねぇ」となってしまいます。

 特に今年は、「成人の日」の1月14日に、都心部でも7年ぶりの大雪となりました。前日の天気予報で予想できたはずですし、スタッドレスタイヤやチェーンなど「日頃の備えが大切」と毎年のようにいわれ続けているのに、交通機関は大混乱、道路も大渋滞で、普段なら5分で行けるところが1時間もかかったりしました。大雪になるたびに、また、「東日本大震災」のときにも感じたことですが、改めて大都市東京の脆弱さを見る思いがしました。

 雪の中(うち)に 
 仏の御名(みな)を
 称(とな)ふれば
 つもれる罪(つみ)ぞ
 やがてきえぬる

 このお歌は、私たちが、日頃知らず知らずに積み重ねてしまう罪を、浄土宗の宗祖・法然上人が、降り積もる雪に喩えてお詠みになられた歌です。
 「そんな、私は罪なんか犯していませんよ」とおっしゃる方も多いかもしれません。もちろんここでいう罪とは、殺人や強盗など、刑法でいうところの犯罪ではありません。

 例えば、私たちが生きていくために欠かすことのできない食事。「おいしい、おいしい」と舌鼓をうち、箸が止まらなくなって、食べ過ぎてしまう。これは、「必要以上に物を欲しがらない」という仏教の「不慳貪戒(ふけんどんかい)」を犯したことになります。スーパーマーケットで、「今は必要ないけど、特売だから、〈大人買い〉しちゃおう」ということも、実は罪につながる場合があります。震災の後にも、さまざまな生活必需品の「買い占め」が問題になりましたが、他の人のことを考えないで、自分の利益、幸福のみを追求する「我利我利」の心、「私は身に覚えがない」と言い切れる人はどれほどいるでしょうか。

 教師が「教育的な指導だった」と言い張るクラブ活動での「体罰」が、尊い人の命を奪うこともあります。「自己中心的」な考えは、常に罪を積もらせる危険をはらんでいるのです。
 「体罰」は論外ですが、法然上人は、そうした私たちが日頃知らず知らずに犯してしまう罪も、仏さまの御名、「南無阿弥陀仏」のお念仏をお称えすれば、降り積もった雪が、日の光によっていつしか溶けて消えいくように、阿弥陀さまの慈悲の光によって、やがては消えていくものですよ、とお示しくださっています。

 ただし、ここで勘違いしてならないのは、「お念仏さえ称えれば、何をやっても大丈夫」という考え方です。最近、洗えば洗うほど、ただ汚れが落ちるだけではなく、繊維自体の抗菌作用が強くなっていくという洗剤がはやっているそうですが、それと同じで、嬉しいとき、怒りたいとき、悲しいとき、楽しいとき、毎日毎日お念仏を称えれば称えるほど、罪が消え去るだけでなく、罪を作らずにすむ生活を送れるようになる、と考えた方がよいでしょう。

 私たちの一生は一日一日の積み重ねです。日々の生活、いざというときのための心構えが、その人の人生を作り上げていきます。
 あれほど沢山積もり、道のあちこちに作られていた雪だるまも、いつのまにか溶けてなくなりました。法然上人のお歌の心を噛みしめて、お念仏を称える毎日を送りたいものです。      合掌