「お念仏の功徳が積もる人生」
鈴木一真(城西組 長善寺)
「いけらば念仏の功つもり、死なば浄土へ参りなん。とてもかくてもこの身には思いわずろうことぞなき、と思いぬれば死生ともにわずらいなし。」
私の大好きな法然上人の御法語です。私は住職四年目ですが、まだまだ未熟なゆえに日々の出来事に右往左往し、年がら年中「思いわずらうことばかり」です。でも、法然上人のこのおおらかなお言葉を思い出すと自然と元気がわいてきて、どんなことも楽天的に乗り切っていこう、という気持ちになります。
ところで、「いけらば念仏の功つもり」とは、即ち「お念仏の功徳が積もる人生」とは、どういうことでしょうか?今回、「今月の法話」を担当させていただいたこの機会に、私自身の思うところをお話しさせていただきます。
今、テレビで、大手予備校講師の「いつやるか?今でしょ!」という言葉がブームになっております。今年の流行語大賞にノミネートされると思います。講師ご本人も人気者になり、連日いろいろな番組に引っ張りだこですね。
私は住職になる前、高校教師をしておりまして、三年生の大学受験指導を毎年のように担当しておりましたので、同じような言葉を生徒たちに向かってよく口にしていたものでした。この言葉は、教師にとって生徒を叱咤激励する決まり文句のようなものです。「いつ勉強するか?今でしょ!」
さて、もし今、私が住職として、このフレーズを使って法話をするとしたら?私の頭の中には次の言葉が浮かんできます。
「いつ幸せになるか?今でしょ!」
もちろん「今は不幸だけど、がんばっていつの日か必ず幸せになってみせる」という考え方・生き方もあると思います。しかし、もし今日、事故や急病で急逝してしまったら、その人は不幸のまま一生を終えてしまったことになりますね。
今がどんなに辛く苦しくても、その日常の中の一瞬一瞬にささやかな幸せを見出して、「今、この瞬間」を、出来る限り上機嫌で幸福感に満ちた心で生き続けることこそ、仏教の目指す生き方ではないか、と私は思うのです。「いつの日かやって来る幸福」よりも「今この瞬間のささやかな幸福感を、出来るだけ途切らせずに維持し続ける」ことこそ、人生のより良い過ごし方のように思えてなりません。
法然上人は「一回の念仏でも往生は間違いないが、終生、絶えずお念仏を称え続けなさい」とおっしゃいました。私は学生時代、「一回の念仏で往生が確定したのに、なんで終生、称え続けなければならないのだろう。」という素朴な疑問を感じておりました。しかし、今の私には、その真意がよくわかります。
お念仏を称えること自体がこの上ない幸せであり、
お念仏を称え続けること(念念相続)とは幸せの相続なのだと。
お念仏を称えるたびに、極楽往生を再確認することができ、称えれば称えるほど往生決定の幸福を噛み締めることができるのです。「死後のことは何も心配いらない」という安心感・幸福感を常に反芻し味わい続ける人生こそ、法然上人が私たち凡夫のためにお示しになられた「人生を幸福に生きる方法」ではないでしょうか。
私はお念仏を称えるとき、自分で決めた一つの信条があります。それは
「どんなに気分が落ち込んでいても、お念仏を称える瞬間は上機嫌になろう」というルールです。感情をコントロールすることはとても難しいことですが、念仏を称えて気分をリセットする習慣がついてくると、普段の感情も少しずつ底上げされて、最近ではいつもおおむね上機嫌になっている気がいたします。私にとって絶えずお念仏を口ずさむ生活は、幸福感を維持し続ける生活になりつつあります。これが私にとっての「お念仏の功徳が積もる人生」です。
最後に、このフレーズで締めくくらせていただきます。
「お念仏いつやるか?今でしょ!」