浄土宗東京教区教化団

平成26年1月「見守られる」菊山隆嘉(豊島組生西寺)

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  「見守られる」

  菊山隆嘉(豊島組 生西寺)
 



 あけましておめでとうございます。

 私には小学校に通う子供がおります。「菊山さんは僧侶をされておりますし・・・」との依頼から、その小学校のPTA役員を務めております。私が考えるに僧侶であるということは社会的に信用があるということもありましょうが、お願いされると断りづらいと思われているということかと思います。
 さて、先日そのPTAの関係で区内の教育委員Tさんとお話をする機会がありました。その方は弁護士をされていて、特に子どものいじめ、虐待、少年犯罪に力をいれておられ、「子どもの人権」については非常に強い信念をお持ちの方でした。興味深くお話を伺いますと、親が子どもに伝える必要がある事として、

①生きてきてよかったと感じてもらう事
②一人ぼっちの存在ではないと感じてもらう事
③自分の進む道は、最後は自分で決める

ことだというのです。
 これらのことを子どもにしっかり伝えることは言葉でいうほど簡単なものではないとは思いますが、多くの子ども達を、特に立場の弱い子どもを長年守られて来た方だけあって大変説得力のあるお言葉だと感じました。もし「一人ぼっちの存在」だと感じてしまったら、子どもでなく私たち大人であっても大変つらいことでしょう。

 私はその時ふと亡くなった祖父母、そして阿弥陀様の事を思いました。それは毎日のお勤めで心を向け手を合わせお念仏を申す時に、「今日も見守られているな」と感じ、「一人ぼっちではない」と実感しているからです。私には父母や妻子がおりますので、それだけでも「一人ぼっち」ではありませんが、阿弥陀様や祖父母に見守られているという感じは、いつでもどこでもあるのでそれとはまた違った安心感があり、力をいただけている感じがしています。もっとも、少し怠けた生活をおくったりするとしかられている感じがすることもありますが、これも「見守られている」ということなのかもしれません。

 みなさんにもご先祖様はもちろん、身内や知人で亡くなられた方がいらっしゃると思います。これらの方々は阿弥陀様と共に、私たちが良い行いをすれば喜び、悪い行いをすれば悲しみながら見守ってくれています。私たちが心を向けて南無阿弥陀仏と称えれば、それを聞いて思ってくれているのです。

 先日NHKの連続ドラマ「ごちそうさん」の中で次のようなセリフがありました。
「包丁というのは実はただの鉄の板なんですよ。研がなければ包丁になりません。そんな事を繰り返すうちにやっと自分の望む刃の角度が見えて来るのです。」

 阿弥陀様や先亡の方々は、私たちに寄り添い、正しい方向へと導いてくれる砥石のようなはたらきも及ぼしてくれます。私たちはそのはたらきを力にし、お任せしながら一歩ずつ前に進んで行けばよいのではないでしょうか。

 もちろん私たちは、何処まで行っても悟りを開くことはできない、煩悩から離れることができない存在(=凡夫(ぼんぶ))ですから、間違った方向に進むこともあります。そんな時も阿弥陀様、先亡の方々と向きあっていくことで少しずつでもその方向へ進んでいけるのです。

 みなさんも日々の生活の中で、阿弥陀様、先亡の方々に心を寄せ、口に南無阿弥陀仏と称え、見守られていることを感じながら過ごしていっていただければと思います。
 今年一年みなさんのご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。