浄土宗東京教区教化団

平成21年11月「お蔭を頂く」土屋光道(芝組観智院)

 

 

 「お蔭を頂く」

 土屋光道(芝組観智院)

 

  ここにお花が飾ってありますが、このお花が咲くのには、葉のおかげ、根っこのおかげ、土や肥料や雨、太陽の光や熱のおかげ、あらゆる眼に見えない無量のお蔭が寄り集まってこの花を咲かせている、寸毫の誤魔化しもない。
 この花が咲いて実がなるように、この私達人間も自分だけの力で、俺が稼いで俺が生きてるんじゃなくて、本当に一本の花が天地の中に咲かしめられるように、私たち一人ひとりが、実はご先祖や親のおかげ、空気、水、天地のおかげ、大自然の無限の法則とエネルギーの働きの結実です。阿弥陀というのは数え切れない、無量と言う意味で、阿弥陀様の無量の生命と光明のお蔭で、今日こうして存在しているのも、私が一人で生きているんじゃなくて、生き活かされているんだという、そういうお蔭に気づくことが、信仰の第一歩だと思います。
 お蔭に氣づかないうちは、宗教の世界はわからない。お蔭に気がついて、その恵に感謝し、そのご恩にどう報いていくかということに、宗教と言うもののすべてがあるんだと思います。

 二宮金次郎(尊徳)先生が、あるお家を訪ねたら、奥さんが朝食の後片付けで、お茶碗やお碗やお箸を洗っておられた。
「あら先生―」
「いやいや、片付けてからでいいですよ」と、先に座敷にお通りになっていた。間もなく奥さんが手を拭いて来ると、
「奥さん、あなたはさっき朝の後片付けをしておられましたね。ところであなた、お茶碗やお箸を洗いながら、いつも何を考えていますか?」
とっさに聞かれて、 「さあ、別に・・・・」
「そうですか。でも毎日三度三度お洗いになるんでしょう。何も考えないんですか」
「さあ、次にまた使うものですからー」
「そうでしょう。また次にも使うんだから奥さんね。お茶碗洗うときには、お茶碗さん有難う、お碗さんご苦労さん、お箸さんまたお昼にお願いねって、そう言って洗ってあげなさい。そうしたら、洗われるお茶碗やお碗もきっと嬉しいでしょう。あなたの心も洗われてきっときれいですよ」と云われた。

 ところで、佛さまの恩徳お蔭というと、何かこう大きすぎたり、遠いことのように思いがちですが、そうでなく、身近なお碗の中にも、お箸の中にも、天地のお蔭、佛さまのお徳が私の為に働いてくだっさっている。そういう感謝と喜びが人生に大切です。
 ぜひ皆さんも、一日の生活の中に、身近なところに、沢山のお蔭・ご恩・お恵みがあるという心眼を開いて下さい、そしてそれは、やっぱり、手を合わす合掌お念仏の中に氣付かせて頂くと思います。
 「ああ天地のお蔭だなあ、佛様のおかげだなあ」という感謝の思いは、「それを無駄にしてはいけない、粗末にしてはもうしわけない」という報恩の心につながります。
 この身体、我が命を天地のお蔭に報いるよう、佛様のみ心に少しでもかなうよいこと、お役に立つことに使いましょう。
 私の命も「もう俺は働いて退職金も貰ったんだから、あとはノンビリ遊んで暮らそう」などと考えずに、佛さま、天地から戴いたものだから、残された命を、世のため人々の幸せのお役に立つよう使わせて頂きましょう。