浄土宗東京教区教化団

平成26年4月「「蜘蛛の糸」はなぜ切れたのか」杉田光寿(江東組泉福寺)

sugita

 「「蜘蛛の糸」は
   なぜ切れたのか」


   杉田光寿
   (江東組 泉福寺) 



 芥川龍之介の物語に「蜘蛛の糸」があります。これはポール・ケーラス著「カルマ」の日本語訳である鈴木大拙「因果の小車」を出典にしていることが知られています。有名なのでご存知と思いますが、あらすじを述べます。
 
 悪行の限りを尽くしたカンダタは、死後当然のように地獄に落ちた。極楽から見ていたお釈迦様はそれを哀れみ、カンダタが生前に一度だけ蜘蛛を助けたことを思い出し、血の池地獄で苦しむカンダタの目の前に蜘蛛の糸を垂らした。彼はその糸をたぐり寄せ、登っていった。さてどのくらい登ったのかと下を見ると、地獄の罪人たちが次々に糸を登って来るではないか。彼は、重さに耐えられず糸が切れると思い「この糸は俺の物だ。降りろ!」と怒鳴った。そのとたん、糸はカンダタの手元からぷっつりと切れ、全員地獄に堕ちていった。

 極楽にいるのは阿弥陀様であって、お釈迦様ではありません。与謝野晶子も、阿弥陀様である鎌倉の大仏を「かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」と詠んでいますが、この時代の特徴かも知れません。私は「蜘蛛の糸」の仏様は阿弥陀様としてお話しします。

 この物語のポイントを二つあげます。一つ目は、なぜ阿弥陀様はカンダタを救おうとしたのか。二つ目は、なぜ糸は切れたのか。ということです。
 一つ目の疑問ですが、カンダタのような大悪人ですら救おうとすることこそ、阿弥陀様ならではのお気持ちなのです。悪人だからこそ、救いの手をさしのばなければ救われないのです。
 小さな間違いや運命のいたずらが、悪への道を進ませてしまったのかも知れません。そういった運命の落とし穴に、運よく出会わなかった人が、善人でいられるのかも知れません。
 人は殺さなくても、言葉や態度で人を傷つけていないでしょうか。物は盗まなくても、ねたんだり不平不満を言ったりしていないでしょうか。人間の世界における善悪など、仏様の眼から見れば些細な違いに過ぎないかも知れません。いえ、殆ど全てが悪人だともいえるのです。

 法然上人はご自身を「煩悩具足せる凡夫」とおっしゃいました。それに比べたら、私など、大悪人です。そんな私のようなものでも救ってくださるのが阿弥陀様なのです。

 次に二番目の疑問です。なぜ糸は切れたのでしょうか。小説にはこう書かれています。「……自分ばかり地獄から抜け出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうして心相当な罰を受けて……」
 カンダタの自分勝手な心に相応しい罰として糸が切られたのだ、と芥川龍之介はいっていますし、一般的にはそう思われているようです。

 「因果の小車」では、一人より大勢の方が困難は乗り越えやすい。(それが正道であり和合の精神である。)しかしカンダタは自分のことに執着してしまった。執着こそ地獄、正道こそ涅槃(極楽)だ、と説かれています。
 カンダタが無慈悲なことは、仏様なら百も承知のはずです。今さら罰を与えるのも変です。何といっても極細の蜘蛛の糸です。普通の人なら切れると思うのが当然です。

 私は、蜘蛛の糸は、カンダタが「切れる」と思ったから切れたのだ、と思います。カンダタは仏様の存在やその教えを知らなかったから、糸が切れると疑ったのです。蜘蛛の糸といえども仏様の糸だから切れるはずがない、という信仰があれば切れなかったのです。下にいる多くの罪人にも執着しなくて済んだのです。

 いや、むしろ一人の信心は蜘蛛の糸のように細いが、多くの人びとの信心が集まれば、それが正道となり、登りやすい道になったのです。
 まさかと思いますが、「阿弥陀様を信仰しなくても救ってもらえるんだ。」と安心しないでください。確かに救いの手は差しのべられるでしょう。蜘蛛の糸ではないでしょうが、せいぜい極楽まで続く梯子(はしご)かも知れません。それはきっと果てしなく遠い道のりでしょう。地獄に堕ちるのと同じくらい苦しい道のりかも知れません。
 しかし、信仰のあった人には阿弥陀様のお迎え(来迎)があります。一瞬にして極楽往生出来ます。死んでからそれに気付いても遅いですよ。