浄土宗東京教区教化団

平成26年9月「当たり前の有難さ」大谷秀穂(江東組法然寺)

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「当たり前の有難さ」

 大谷秀穂(江東組 法然寺)







  今年も暑い夏でした。そんな8月6日、テレビで広島の平和記念式典を見ていました。式典では毎年、広島の小学生が「平和への誓い」を世界へ向けて発信しています。今年は「当たり前であることが、平和なのだと気がつきました」という一文がありました。

 そこで思い出したのが、東日本大震災後のテレビでの一コマでした。女子高校生が友人に送ったメールを紹介していました。詳細は不確かですが、この生徒は津波の被害に遭い、親族もしくは知人を津波で亡くしたと記憶しています。メールには「当たり前のことが当たり前じゃなかった」とありました。ここでいう「当たり前」とは「普通の日常生活」という意味です。

 普段私たちは朝起きてから夜寝るまでの家族とのふれあいや、学校や職場での人との交流を繰り返して生活しています。また、蛇口をひねれば水が出て、スイッチを入れれば電気が点く。この「当たり前の日常」が続くことに私たちは何の疑いも持ちません。今目の前にあるものは明日もある、今一緒にいる人には明日も会える、そう思っています。

 しかし諸行無常、万物は常に変化しとどまることがないというこの世では、明日と言わず1秒先も今と同じである保証はありません。たまたま同じ状態が保たれているように見える、ということです。

 それが理屈ではわかっていても、私たちはよほどのことが起きて初めて「当たり前」のありがたさに気付かされるのです。前述の女子高校生も、おそらく直前まで会っていた人を突然津波で失い、自分の生まれ育った町の変わり果てた光景を目の当たりにして、「当たり前」のことなどないのだと感じたのでしょう。もちろん震災だけでなく、例えば最愛の人を突然失うことも、「当たり前」が崩れてゆくのを実感する時だと思います。

 私たちは家族や親戚、友人知人と関わりながら生きています。しかしご先祖の中で誰か一人が欠けても自分は存在しません。それは誰にでも当てはまることで、私たちが出会えたことは「当たり前」ではなく有難いご縁によるものなのです。「有難い」とはそもそも「存在することが難しい」ということです。それぞれの人が受け難い人間としての生を受け、さらに有難い他の人とのご縁をいただいているのです。

「生きていることは当たり前ではないということを、決して忘れないよう…」
「当たり前のことがどれほど幸せなことか…」

 震災に遭われた方々が多くのメッセージを発信しています。実体験から出るメッセージが、その有難さを思い起こさせてくれたような気がします。ですから「当たり前」の日常を過ごす中で、時にはその一時一瞬を大切な有難いものと気付き、感じたいものです。

 私は法事の時によく「今日、こうして皆さんがこの本堂にお集まりになれたのも、ご先祖からいただいたご縁のおかげですよ」とお話しています。間もなく秋のお彼岸です。ご先祖に感謝し、いただいたご縁に感謝し、ご家族と、ご友人と、どうぞ菩提寺へお参り下さい。