浄土宗東京教区教化団

平成26年10月「命の糧(かて)」荒井岳夫(城北組仁壽院)

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「命の糧(かて)」



荒井岳夫(城北組 仁壽院)






 さわやかな季節を迎えました。天高く馬肥ゆる秋と申しますが、実りの秋、食欲の秋でもあります。栗、柿、きのこ、さつまいも、秋刀魚、ふっくらとつややかな新米のごはん。この時期ならではの味わいを楽しんでいらっしゃる方も多いのではないでしょうか。家庭の食事は、旬の食材を使って作ると、体に良く、財布にやさしい。私は、以前、放送制作の仕事をしていましたが、料理番組の講師の方々の多くが、よくおっしゃっていました。

 お米といえば、子供の頃、父から聞いた話を思い出します。父自身も伝え聞いた話とのことですが、「昔、食べ物がなくて、体が弱って瀕死の方があると、わずかな米を入れた竹筒を、枕元でカラカラと鳴らして聞かせた時代があったそうだ」と言うのです。私は幼いながらに悲しくなり、「亡くなる前に人は、お腹いっぱい食べる夢を見たいのかも知れない。安心するのかな」と思ったことを覚えています。

 後に調べると「振り米」と呼ばれることを知りました。粟やひえしか作れず米をなかなか食べられなかった地域や、飢饉で苦しんだ時代の慣習で、今も日本各地の山村などに言い伝えが残ります。「じいさん、米じゃ、米じゃ」と、耳元で振って聞かせたり、米が手に入らず隣村で米を借り、「これが米の音だよ。あの世では、米のご飯が食べられるように、この音を覚えておきな」と言い聞かせたりしたそうです。病気の治った人もあり、安らかな顔で旅立った人もあったと言います。江戸時代、お米は「ぼさつさま」とも呼ばれたそうです。古語辞典で「菩薩(ぼさつ)」と引くと、米の別名と出てきます。菩薩は広い意味で仏様のことですが、お米も菩薩様と同じように、人の命の糧となる尊いものだと思います。

 さて、宗祖法然上人は、食事のことにふれて、次のようなお言葉を残されています。

「人の命は食事の時、むせて死する事もあるなり。
南無阿弥陀仏と噛みて、南無阿弥陀仏と飲み入るべきなり。」

(人間の命というものは、食事中でも食べものが喉に詰まってむせて、死んでしまうことがあるものです。ですから、いつお迎えが来るか分からないから、南無阿弥陀仏と称えて噛み、南無阿弥陀仏と称えて飲み込むべきです)

 一日に六万遍、七万遍のお念仏をお称えされたという法然上人が、食事時に、どのようなご様子でいらっしゃったのか、少し垣間見させていただいたように感じる方がいらっしゃるかも知れません。また、人はいつどんな時にお迎えが来るか分からない、だから後悔することがないように、普段の生活の中で怠ることなく、お念仏をお称えしよう、この瞬間、この瞬間に、命を打ち込もうという法然上人の生き方に思いを馳せる方もいらっしゃるのではないでしょうか。お念仏は、今この時を生きる、命の糧とも言えるかも知れません。

 日に日に秋が深まります。季節の恵みに感謝をしながら、お念仏の生活を共にお送りいたしましょう。