長谷川岱潤(城南組 戒法寺)
11月という月は、私のお寺では、一年のうちで行事のない、数少ない月の一つです。
お彼岸、お施餓鬼、お盆、お十夜と、毎月のように慌ただしく過ごしているお寺ですが、2月や6月、そして11月はそうした行事がなく、淡々と日々を過ごすことが出来ます。
そうしたことからこうした月には、各種の研修会が多く開かれます。特に秋のこの季節は、読書の秋と言われるように研修の季節であり、多くの成人大学、カルチャースクールが開講されます。
先日実は私もひょんなことから墨田区で開催されていますカルチャースクールの講師を、一講座だけ頼まれまして行って参りました。
「仏教に導かれて」と題する講座で、私はその第一回目、仏教の始まり釈尊についてのお話をさせていただきました。
これをお読みの皆さんは、お坊さんならお釈迦様のお話なら誰だって出来るとお思いと思いますが、こうした成人大学に聴きに来てくれる人にお話しするとなると、なかなかこれが大変なことで、お釈迦様の勉強を一からし直すことになりました。なんと言っても、お釈迦様の勉強をしたのは、かれこれ四〇年も前のことです。
そこで今の学者さんの本を読み始めたわけですが、これが驚いてしまいました。いろいろな点で私が習ったことと違うのです。最初混乱してしまったのですが、今まで気づかなかったことがみえてきました。それは何かというと、今遺されている経典といわれるもの、これらが誰が誰に向かって語られたもの、あるいは書かれたものかということを意識して、理解しなければ解釈を間違えるということがあるということです。
たとえば、お釈迦様のお言葉を直接伝えているという経典がいくつか現存しておりますが、それらは皆、お弟子さんの中のエリートの人たちに向かって説かれたものです。そして三〇〇年、四〇〇年たってまとめられた経典の中に、お釈迦様が在家の人たちに向かって説かれたお話がたくさん出てきます。しかしさっきのエリートたちに説かれた三つの経典も、文字化したのは、やはりお釈迦様が亡くなって四〇〇年くらいたってのことなのです。ですからどちらが正しく、古いなどと言うことは言えなくなってしまうのです。要は誰に説かれたかということが大事だということです。
同じことが法然上人にも言えると思います。法然上人のお言葉は、ほとんどお坊さんに向かって説かれたお言葉が残っています。庶民の方にあれだけ多くのお話をされていると思いますのに、現在残っていないのは誠に残念です。当時の教育水準を思えば当然のことだと思いますが。ですから在家の方へのお話で遺っていますのは、貴族、皇族の方へのお話が主です。
私の大好きな言葉「一つの月が、たくさんの水の器に映っている。その器の浅い,深いを選ぶことなく」というお言葉も、極めてエリートのお坊さんに対する講義の中でのお言葉です。月は阿弥陀様の象徴で、器は私たち凡夫です。分け隔てない阿弥陀様の慈悲を理解するお言葉として本当に優れていると思います。
これと同じような意味のお言葉が、「悪人の方が善人よりも阿弥陀様が救ってくれる」という、いわゆる『悪人正機』のお言葉も同様です。これは親鸞聖人のお言葉として有名ですが、元々は法然上人のお言葉です。
確かに言う人を間違えれば、大変な誤解が生じてしまうのです。庶民にはあくまでも、精進努力を説きますが、お坊さんには確信をお話ししたのです。
人によって言うことが違うことを、「二枚舌」などと言いますが、目の前の人を救おうという絶対的なお心があるときには、それが必要なときもあると言うこと、宗教と道徳の違い、そうしたことを改めて勉強しました。