浄土宗東京教区教化団

平成26年12月「あいさつ」青木照憲(芝組酉蓮社)



「あいさつ」


青木照憲(芝組 酉蓮社)


 犬の散歩で通る中学校のフェンスに大きな字で「あいさつをしよう」と掲示してある。
 そこを通るたびに良い言葉だなと何気なく眺めながら通り過ぎていた。
 しかし、うがった見方をするとあいさつがなされてないのかなと思うようになった。

 朝起きたら妻に向かって「おはよう」と声を掛ける。出かけるときに「行ってきます」帰ってきたら「ただいま」と声を掛ける。
 団塊の世代の小住の小学校の頃あるいは中学の頃は教室に入るときに大きな声で「おはよう」と言いながら入ったように記憶している。昨今では議会などで会議室にいるときも大きな声で「こんにちは、ご苦労様です」と声を掛ける。
 当たり前のことだと思ってることが今は廃れてきているのかも知れない。

 確かに自坊の前の道を小学校に通う子供達に「おはようと」と声を掛けると、黙ってうつむく子、振り返って怪訝そうな顔をする子、小さな声で答える子、と様々であり、きちんとあいさつが出来る子供は少ないようである。
 そうであるからこそ、あれほどまでに大きな字で喚起する必要があるのだろう。

 話は変わるが、自坊でも二年前に納骨堂を新設した。厳かな雰囲気ではなく、とても明るくして特製の納骨箱に移骨して永代のお預かりをしている。いわば綺麗な感じにしたのである。納骨堂の中には入らないで外からお参りする事にしていた。それでも希望があれば中に入ることも良しとした。お参りに来られた方が納骨箱に手を添えて、「〇〇ちゃんお参りにきたよ元気」と声を掛けている。つまりあいさつをしているのである。これは新鮮な発見であり、心温まる光景であった。

 通夜の法話でも故人は極楽浄土から皆様を見守っておられますよ。でも皆様と別れて寂しい思いをされてますから日々声を掛けてあげてくださいね。と亡き人にも声を掛けることを勧めている。
 江戸仕草の中に「会釈のまなざし」というのがある。声を掛けなくても通りすがりの人にその仕草をすると、相手も笑みを返してくる。
 ある本によれば「あいさつ」は「人間関係を円満にする基本動作」とあり、あいさつという行為は、少なくとも敵意を持っていないことから始まって、好意を持っていること、尊敬の念を持っていることなどを相手に伝える動作であると書いてある。
 
もっともっとあいさつが気軽に交わせる社会になれば無味乾燥な人間関係も改善されるのでは無いだろうか。
 大人が率先してあいさつし合う世の中になりたいものである。