浄土宗東京教区教化団

平成27年2月「笑顔と共に」原 善順(浅草組静蓮寺)

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「笑顔と共に」


原 善順(浅草組 静蓮寺)




 皆さんは「笑顔」と聞いて、まず何を思い浮かべますか。
 挨拶を交わしたとき、楽しい時間を過ごしたとき、面白い話を聞いたとき、仲の良い友人と久々に再会を果たしたとき、「笑顔」はいろいろな場面で、自然とその場を和ませてくれます。
 では、その「笑顔」を受け取ったとき、あなたはどのような気持ちになるでしょうか。
少し怖そうに見える人、普段は暗い感じの印象を受けていた人、そんな人でも、もし相手が「笑顔」で接してくれたとき、あなたの心も温かくなるのではないでしょうか。
 逆に、あなたが「笑顔」を届ける立場のときはどうでしょう。自分自身が少し落ちこんで悲しんでいるときや、暗くなって悩んでいるときでも、心を奮い立たせ「笑顔」を作ることによって、その気持ちは少しずつ晴れてゆき、相手に対しても健やかで清々しい気持ちになり、優しくなれる気がします。

 私も三十歳が間近に迫り、同年代の従兄弟たちは、まさに子育ての世代のまっただ中です。このお正月、親戚中が皆「子連れ」で集まって新年会を開いたときのことです。3歳になったばかりの男の子は、初めは緊張してお母さんの後ろにずっと隠れておりました。しかし、時間が経つにつれ、5歳の男の子に「一緒に遊ぼう」と誘われると、それまでのおとなしさはどこへやら、満面の「笑顔」で走り回り、元気に遊び始めました。それを見ていた大人たちも、口では「もう少し静かに遊びなさい」などといいながら、どの顔も、自然と「笑顔」になっていました。子供が増えれば、「お年玉」など急な出費が増えてたりもしますが、この子供たちの「笑顔」をみていると、むしろそれを嬉しく思えるほどです。子供たちの「笑顔」、無邪気に今を楽しみ、今を生き、何一つ嘘の無い自然な「笑顔」には、周囲の人々の心を明るくさせる力があるのです。

 発生から間もなく四年になる「東日本大震災」。いまだに日本全体が深い悲しみと、閉塞感の中に包まれています。また、度重なる自然災害など、暗く、悲しいニュースも後を絶ちません。私たちは「東日本大震災」が起きた直後から、浄土宗青年会の仲間たちと一緒に、被災地で、いわゆる「傾聴ボランティア」を続けてきました。被災された方々の、辛く、悲しいお話を伺う度に、人生経験の浅い自分たちには、何ができるのだろう、どうすることもできないのではないか、そんな思いが募るばかりでした。しかし、そんな中でも私たちが心がけていたのは、寄り添いながら、できるだけ「笑顔」でいよう、ということでした。同じ仮設住宅に何度も伺い、顔なじみになり、長い時間お話を聞かせていただくうちに、こちらが「笑顔」でいると、相手も自然と「笑顔」を見せてくださる瞬間が、少しずつですが出てくるようになりました。初めは少しだけの「笑顔」かもしれませんが、その「笑顔」が次の「笑顔」を生み、共に広げることができれば、それは子供たちの持っている「笑顔」と同じように、大きな力となり、前へ進む力へと変えて行けるのではないだろうか、最近そんなことを感じています。

 さて、仏教には「布施行」の教えがあります。「布施」というと、どうしても「お金」を施すというイメージが強くなりがちですが、実は「布施」はそれだけではありません。金銭によらずに行える「布施行」の代表が、「無財の七施(むざいのしちせ)」といわれる「眼施」「和顔施」「言辞施」「心施」「身施」「床座施」「房舎施」の七つです。その二番目が、常に「笑顔」で接することで、相手に幸福を施すことができるという「和顔施」です。浄土宗をお開きになられた法然上人もまた、悩みをもった人々のお話を聞き、「南無阿弥陀仏」と声に出して称える、「お念仏」の教えを優しく説かれました。そのお顔はいつも穏やかで、「笑顔」であったことでしょう。

 私たちの暮らす実際の社会では、思い通りには行かないことや、さまざまな悩み、苦しみ、悲しみが多いのが現実です。そして、子供の頃に比べれば、たしかに自然に「笑顔」になれる時間というのも、年齢を重ねるたびに減ってきてしまうのかもしれません。電車の窓や、街中のショーウィンドーなど、ふとした時に自分の顔を見ることがあるかと思います。その時、もし悲しい顔や、暗い顔をしている自分に出逢ったら、少しだけ口角をあげ「笑顔」をつくってみましょう。「形から入る」ことは大切です。きっとその瞬間から、「笑顔」と共に前向きに生きる力が生まれてくるでしょう。「笑顔」にはそんな力があるのです。