「六道輪廻と極楽」
西村実則(城南組 長松寺)
初期仏教では在家の仏教信者に対し、現世で善を積めば死後「天」に生まれ、悪をなせば「地獄」に落ちると説いていた。この「天」は梵天、帝釈天などのいる世界で、この考え方は当時すでにインドの民衆に深く根付いていたバラモン教の輪廻の死生観にならったものであった。仏教でも地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の六道輪廻を説くが、この「天」も輪廻の一つであるから理想的な最終境地ではない。輪廻の循環から脱するのが仏教のめざす境地だからである。しかしながらインドの仏教徒には大乗仏教成立後も天に生まれること、つまり「生天」願望は根強かった。
当時の仏教信者の実情を収録した仏典『百縁経』には次のような話がある。
餓鬼となり地獄に行ってしまった男、優多羅が仏から、僧の集まりに布施すれば生天できると聞き、さっそく実行したところ、天上界(忉利天)に生まれることができた。それを仏に報告するために天から降りてきて、仏に再会し、再び天上界に還っていった。これは地獄→地上→天→地上→天という経過である。
あるいは『天宮事(ヴィマーナヴァッツ)』には、生天して天女となることができた女性がその喜びを語る話が数多く認められる。たとえば、貞淑な妻が、母と子を世話し、真理に従い、虚偽を語らず、施与を率先して行ったため、天女となることができ、天の世界でもひときわ輝いていると披露する。
このほか『雑宝蔵経』にも、生天した女性(天女)と帝釈天との対話が次のようにみられる。
天女になったそなたは黄金が身体に溶け込んだようで、光り輝くさまは蓮の花のようだ。
そうなるにはどのような福徳の行為をしたのか教えなさい。
これに対して天女はいう、
仏弟子であった迦葉の塔に供養をしたのです。
そのため今、天上界に生まれることができ、有り難い功徳をえて金色に輝いているのです。
帝釈天は天女に、
こうしたすぐれた果報が得られたことを仏に感謝しなさい。という。
さっそく天女は天上界から人間界に降りて、仏に会い、再び天上界に帰還した。
ところでここに挙げた話の中の「天」は、「天」といえども必ず輪廻する世界である。これに対し、輪廻しない理想郷である極楽浄土を説いたのが大乗仏教のひとつ、浄土教であった。大乗仏教は仏滅から約四百年後に成立したもので、浄土教は来世を輪廻しない、阿弥陀仏の住む極楽浄土だけと強調した。このことは浄土経典『無量寿経』に説かれている。同じく大乗仏教の経典である『法華経』や『華厳経』にも極楽浄土が説かれているが、従来通りのバラモン教でいう天(兜率天、三十三天)の世界や、『華厳経』独自の世界である「蓮華蔵世界」を同列に説く点で、浄土教の極楽浄土とは大きく異なる。
極楽浄土が輪廻しない世界であることは『無量寿経』の中で法蔵菩薩が誓った四十八願の第二願に示されている。
もしもかのわたくしの仏国土に生まれた生きとし生ける者のなかで、さらにそこから死んで、地獄、畜生、餓鬼、の境地に陥る者や阿修羅の仲間になるものがあったなら、そのあいだはわたくしはさとりを開くことはありません(梵本)。
これは、極楽に生まれた者が再び六道輪廻の世界に生まれるようであれば、法蔵菩薩が阿弥陀仏にはならない、という誓いで、法蔵菩薩はすでに阿弥陀仏になっているので、この誓いどおりになったということになる。
また七世紀の中国浄土教の大成者、善導大師も『法事讃』において極楽浄土が輪廻の世界でないことを次のように説いている。
釈尊も諸仏も心を一つにして西方極楽の安楽を説き、人びとを等しく正しい法門に入るように願っている。正しい法門とはすなわち阿弥陀仏の世界である。浄土は究極の解脱の世界である、といい、また極楽は生滅変化しないさとりの世界である、ともいう。
さらに次のように説く。
願わくば三塗(さんず)を閉じ、六道を絶ちて、無生浄土の門を開顕す。
これは、釈尊が地獄、餓鬼、畜生の世界を閉鎖し、六道輪廻を断ち切って、浄土の門を開くことを願った、という善導の見方である。
このように、輪廻する六道の「天」の対極に成立したのが浄土教で説く極楽浄土である。