浄土宗東京教区教化団

平成27年9月「先人の誘いに導かれて」原口信英(城西組正受院)

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「先人の誘いに導かれて」


原口信英(城西組 正受院)




 師僧(父)が亡くなってから毎年、桜の時季に千鳥ヶ淵へ一人で行くようになりました。風がふっーと吹いて、花びらが裏・表・表・裏とひらひらと散っていく様子を観ましたら、綺麗だなあとの想いとその一方で無常を感じました。また、生と死は表裏一体なんだなということを改めて思いました。
 佛教では「諸行無常」という事を説きます。常に物事は移り変わる意味であります。私の中では、寂しい、悲しい教えだなと思います。しかし、それが真実であり真理であります。だからこそ、毎日をその時を一瞬に大切に生きなければいけないと痛感しています。

 師僧(父)が亡くなり、今年で十七回忌になります。正直まだ心の中にぽっかり穴があいていて、悲しさ・寂しさ・虚しさを感じます。生前、父はよく檀信徒の皆様に「三宝」の話をしておられました。ご存じの通り、「三宝」とは佛・法・僧のことであり、佛は明るく、法は正しく、僧は仲良くということであり、佛教の旗印、いわゆるモットーでございます。その言葉は非常に優しいけれど、いざ実践・行動することはとても難しいことであります。
 また、祖父にはお念佛とは「毎日の生活のリズムを刻むこと」と教わりました。人は一日の中でも笑ったり、悲しんだり、嘆いたり、喜んだり、怒ったりと感情が変わります。お念佛をお称えすることにより、少しでも阿弥陀様の御心(本願)に順じて生活していきたいものです。そんな父や祖父の言動を想い出しつつ、その遺志・生き方の姿勢を汲んで継いで脈々とその法灯を絶やす事なく精進してまいりたいと改めて思います。

 千利休に「稽古とは一より習ひ十を知り 十よりかへるもとのその一」という歌があります。稽古をするには、一から二、三、四と順を追って十まで進み、その次には再び初めの一にもどって、また改めて二、三、四、五と順に進むのであります。初めて一を習うときと十から元の一にもどって、再び一を習うときと、その習う人の心は、全く変わっているものであります。こうしたことを繰り返しているうちに、茶道の真意も、理解できるとの事であります。人生も生き方も同様に、十まで習ったから、これでもうよいと思った人の進歩は、それで止まってしまうのかもしれません。

 話は変わりまして、正受院では二月八日に「針供養」という行事を行っており、針に感謝の意を込めて折れ針・古針を柔らかなお豆腐に刺します。針の労をねぎらい、お裁縫の技芸上達を祈願・祈念する行事であります。この行事を通して、すべての物事に報恩感謝の心を育み捧げて、毎日の生活をして頂ければ幸甚です。合掌