浄土宗東京教区教化団

平成21年12月「除夜の鐘にいのちの余韻を聴く」佐藤雅彦(豊島組浄心寺)

「除夜の鐘にいのちの余韻を聴く」

佐藤雅彦(豊島組浄心寺)

 私たちは、よい音を聴いたとき、その余韻を耳にとどめることがあります。「余韻」は音を聴いて、よい印象の響きが残るときだけ余韻とよび、好ましくない響きのときには余韻とはよびません。
時間や歳月には、余韻はないのでしょうか。

 今年も残りわずかになってきました。心静かに振り返ると、よき出会いや出来事のあった人、悲しい別れや辛いできごとに遭遇した人、さまざまな立場の方がおられると思います。喜びにつけ悲しみにつけ、印象深い出来事のあった人にとって、年の瀬を迎えて、今年という年が過ぎていくことは、何とも気持ちの改まることだと感じているのではないでしょうか。

 私たちは、行く年を惜しみつつも、来るべき新しい年に「新年こそ」と、新たな希望を感じるものです。いつもの一日が加わっただけで、カレンダーが新しいページに捲られただけなのに、新年の希望は湧いてくるものです。これは昔の人々が、惰性で生きてしまうことの多い当たり前の人間のために、暦を変えていくことで心を新たに切り替えることができるように仕組んだ、生きるための仕掛けのようなものだったのかもしれません。
 しかしさらに自分を凝視すると、今年の自分は、決して来年も同じ自分がいるわけではなく、今年の自分を取り戻すことはできません。新しい年を迎えることは、まさに一瞬一瞬、死に近づいている「生死一如」と言えるのです。「新年の希望は、今年の反省の上に成り立つ」と言われます。年末の慌しい時候であっても、今年を振り返り、自らの所業を省みる時間を作りたいものです。

 私たち日本人は、昔から大晦日に打ち鳴らされる除夜の鐘を聴いては、その年の出来事や自身のいのちを照らし合わせ、煩悩の除去を祈ってきたものです。除夜の鐘の余韻と過ぎ去ってゆく年を惜しみ、二度と戻らない時間やいのちを、心静かに思いやり、大切に見送るという作業を、一年の最後の夜に行ってきたのです。
 
 翻って最近の若い人々を中心とした新年の迎え方は、米国のニューヨークのタイムズスクゥエアに見られるような、カウントダウンをして花火を上げ、新年を迎えるお祭りのような行事が、各所に見られます。そこには、新しい年の訪れに対する歓迎に重点が置かれ、行く年を惜しむといった、日本人の大切にしてきたものが抜け落ちているかのように感じるのは、私だけでしょうか。

 過ぎていく歳月を惜しむことは、私たちの周辺に流れていった時間を惜しむということだけではありません。まさに諸行無常の中に自然と燃焼させている、この「いのち」を惜しむことに他ならないと思うのです。除夜の鐘の響きは、今年の我々のいのちの余韻を、耳に聴こえるように響かせてくれていると受けとめることができるでしょう。
 この一年に悲しい別れをした方は、離れているとさみしく感じるお父さん、お母さん、大切なあの方のお顔を思い浮かべて「ナムアミダブツ」とお声に出して唱えてみてください。きっと大事な方々が、私たちの方を、思いやり深い眼で見つめてくれますよ。
 
 嬉しくも悲しくも報告したいなと思う出来事のあった方は、それを報告する気持ちで「ナムアミダブツ」と唱えてください。微笑ましい安堵のお顔で、私たちをご覧いただいていますよ。
 行く年を送るときも、新しい年を迎えるときも、どうぞお耳の底に「ナムアミダブツ」の余韻が残るように、お念仏を生きる杖にして、大切ないのちを育み、生きていきたいものです。南無阿弥陀仏