「“悪人“こそが仏の救いの対象」
稲岡正順(城北組 林宗院)
忌まわしい事件が内外で起こっています。
相模原市の障害者施設で大勢の入院患者が殺害されるという衝撃的な事件が起きました。フランス北西部ノルマンディー地方のカトリック教会に、刃物を持って武装した二人の男が押し入り、高齢の神父を刃物で殺害するという事件が起きました。容疑者たちは畏れ多くも聖職者である神父に膝まづくよう命じたそうです。このような無差別殺人や、聖職者がテロの対象になるというおぞましいニュースに接するとき、私たちは息のつまるような憤りを抑えることができません。
このような極悪人の、許しがたい罪業について、私たち浄土宗徒はどのように対するべきなのでしょうか? 私たち凡夫のこころに渦巻く疑問や憤りを鎮めることは出来るのでしょうか?その答えを得るために法然上人の教えを再認識することにしましょう。
法然上人は『選択本願念仏集』(建久九年、1198年)に、「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べて「悪人正機」(悪人こそ仏の真の救いの対象であるという説)を展開し、いくら努力しても善人になりきれない自己を見つめて、人は常に一層の努力をすべきと諭されているのです。法然上人の「一紙小消息」に次のようにあります。「罪は十悪五逆の者も生まると信じて少罪をも犯さじとおもうべし 罪人猶生まる況や善人をや」とあるのはこれを示しています。法然上人は悪を慎み、善を努めることを勧めたのです。
法然上人の弟子である親鸞は『歎異抄』の中で「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と逆説的に説いています。このことをもって「悪人正機」を親鸞の独自説とする論調もありますが、大正六年に、法然上人の伝聞、法語の記録を記した『法然上人伝記』(醍醐本)が発見され、そこには「善人尚以往生況悪人乎(善人尚もって往生す 況んや悪人をや)」の法語が法然上人の「口伝」として記されていますので、先に法然上人の言葉があり、親鸞はそれを敷衍したに違いありません。
さて、この法然上人の「悪人正機」とは、先に述べた、私たちにとっては極悪人としか思えない人間をも救いの対象としているのでしょうか。悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」などと悪人正機の意味を曲解して悪をなす者も出かねません。
それが間違いであることを法然上人は厳しく諫めています。上人は「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」とおっしゃっているのです。このような極悪最下の人に対する教えに接すると、法然上人が悪を認め、すすめているのではないことが明確に理解できます。
この「悪人正機」の意味を知る上で重要なのは、「悪」という言葉についての正しい理解です。この現実世界には可視的な善と悪が存在していて、悪をなした者は法律的に罰せられますが、「悪人正機」で言う「悪」とは世間的な意味の悪ではなく、人であるが故に宿命的に内在させている「絶対悪」のことです。どんなに隠そうとしても人の「悪」を見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人なのです。そんな惨めな存在である私たちを憐れみ、救い摂って下さる仏さまが阿弥陀さまなのです。
何の罪もない大勢の障碍者を殺害するような、また聖職者を殺害するような人間が、世間的な法律で裁かれ、極刑に附される可能性は大きいと思われます。しかし、刑が執行される直前に、自身の行ったことの罪の深さに気が付き、心の底から懺悔し念仏を唱えることが出来たとすれば、たとえ刑場の露と消えようとも阿弥陀様はその者の魂を救い摂って下さるでしょう。
「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」、今の世界にあふれる極悪最下の人の心に深く染み込むお言葉です。これこそ、非道な悪を犯した者への慈愛の言葉であり、その事件に接した私たち凡夫のこころに渦巻く疑問や憤りを鎮めて下さるお言葉です。