浄土宗東京教区教化団

平成29年2月「超高齢社会から多死社会に向かう流れの中で~身近なお寺と仏教を目指して~」浄土宗東京教区教化団団長 佐藤雅彦(豊島組浄心寺)

教化団長_s


<この法話のページについて>
 昨年12月25日から、浄土宗東京教区教化団の団長に就任した、豊島組浄心寺(文京区向丘2-17-4)の住職の佐藤雅彦です。この今月の法話のページは、浄土宗の檀信徒にとどまらず、伝統的な仏教の話に触れたい人なら誰でもアクセスできる気軽で、身近な仏教の入り口になるよう、これから教化団の方々と一緒に作り上げていきたいと願っています。今回は、このように活字を通して皆さんに届くよう発信していますが、元来、法話は、その和尚さんを目の前にして、その和尚さんの声を通して、受けとめ、心に染み入っていくものかと思います。またインターネットの世界も、動画や相互の交信がたやすくできる時代になっています。ご家庭にいて、さまざまな和尚さんの顔を見たり話が聴けたりするような「法話のページ」を作れたらいいなと、検討をはじめたところです。どうぞ楽しみに、このページを開いていただけますように、改めましてお願いしたいと思います。

 私は、西巣鴨にある大正大学という仏教の大学で「ターミナルケア」や「生命倫理」に関する講義を、若い学生や熟年で聴講に見えられている学生さんたちに行っています。すでに「高齢化社会」という言葉から「化」が取れて「超高齢社会」に突入し、その向こうで「多死社会」が待ち受けているといわれます。私たち浄土宗の法然上人、その源であるお釈迦さまも「いのちを大切に生かすための教え」を残してくれたといえます。このいまだ遭遇しなかった時代を前に、いのちを大切にしてゆく学びの機会を提供していきたいと思います。

●ある女性の訴えから
 今から30年ほど前のお話です。臓器移植や試験管ベイビーなど、新しいいのちの問題が社会で話題にされ始めたころ、私は「医療と宗教を考える会」という、月に一度、四谷で開かれる勉強会に学びに行っていました。そこには、当時はまだ70歳ほどの日野原重明先生(現在105歳)や作家の遠藤周作さん、「命の準備教育」で知られる上智大学のA・デーケン先生ら、そうそうたる顔ぶれの方々が熱心に見えられていました。必ず会場からの質問を広く吸収していたその会では、その日も講演の最後に、質問の時間が設けられました。
 40代と見受けられる婦人がサッと手を上げ、話し始めました。少し前に父を亡くした女性は、父の看取りについて話し始めたのでした。彼女の父親は、東京近郊に住み、母の死後、墓参りに行くことが生きがいのような生活をしていたそうです。毎日のようにお寺に出かけ、お墓の掃除をし、お参りをして帰ってくる、そんな生活をしていた父。その父ががんになり、今のように告知も進んではいない時代に、この婦人や家族は、父を看取ることの苦しみに困っていたそうです。彼女の不満は、お寺に向いていました。つまり「あんなにお寺が大好きで、お墓参りに出かけた父なのに、住職は見舞いにも来てくれなかった」と訴え、それ以来、お寺と距離を置くようになってしまったという話を吐露し「お坊さんは、死んでからお経は読んでくれても、病気と向かい合って家族も本人も一番苦しい思いをしているとき、何にも助けてはくれないではないか!」と、訴えたのでした。

●言わなければ伝わらない
 私は、その会場にいた僧侶の一人として発言を求、その女性に質問しました。「あなたは、そのお寺の方に父のところへ訪ねてほしいと伝えましたか?」と。すると彼女は、口ごもってしまいました。私は「「そんなにお参りをされたお父さんなら、そのお寺の住職やお寺のご家族も、○○さん、最近見えないね。具合でも悪いのかね」と話をしても、「お見舞いに来てください」とも言われないのに出かけていったら「お坊さん、まだ早いですよ、縁起でもない」と考えて、遠慮されていたかもしれませんね」と。ここには難しいお寺と檀家さんの関係があろうかと思います。気軽に「よし行ってあげようよ」と出かけていっても何も問題にならない関係性もあれば、お寺やお坊さんと接することに必要以上に「死」を連想して付き合う人と。昭和初期のようにみんなが同じ教育を受けていた時代とは異なります。「言わなくてもわかるはず」という発想は通用せず、今は「言わなければわからない」時代といえます。ちょうどこの頃は、お坊さんが病院に行くなど「霊安室に行く」ことを除いては、まだ考えられないような時代背景でした。

●多様なニーズの時代に
 それから30年ほどの時代が過ぎ、社会の様子は大きな変化を遂げています。さてお寺とみなさんとの関わり方はいかがでしょうか。伝統的なことが重んじられるお寺の社会も、少しずつではあっても確実に変わりつつあります。あの東日本大震災で多くの方々が亡くなり、改めて仏教の大切さや尊さが認められるきっかけにもなりました。少しずつではありますが、病む方々への関わりをお坊さんの活動に取り入れる僧侶も各地で広まりつつあります。亡き人の追善の法要をするだけではなく、そのお寺の住職によってさまざまな得意な活動があり、檀家の皆さん、または一般の方々は「こういうところが『痛い』『苦しい』から助けて」と助けを求めてもいいのです。もちろんお寺の住職も何でもできるわけではありません。得意なこともあれば、苦手なこともあります。病者の心を支えることが得意なお坊さんもいれば、子供たちと活動することが得意なお坊さんもいます。それではうちの住職は、見舞いに来てくれるようなタイプじゃないからダメだね、と諦める必要はありません。世の中はネットワークの時代です。必要があれば、東京の浄土宗寺院のご縁あるお坊さんがかけつけることのできるようなネットワークを作っていきたいと思っています。
 亡くなってからのお葬儀や法事だけではない、生きる時間に必要とされる仏教に、緩やかですが、変化していく時代に私たちは立ち合っていることを、どうぞ忘れずにいてください。そして仏教に助けを求めたい人は、どうぞその声を届けてください。

●どんなときにも仏さまはご一緒に
 浄土宗の宗祖・法然上人の教えは、いついかなる時にも阿弥陀様のお名前を「南無阿弥陀仏」と口に出して称えれば、阿弥陀仏のお守り、お救いをいただける、とても優しい教えです。まずは日常の生活の中に「南無阿弥陀仏」と称えて祈ることをしっかりと習慣づけられて、日々の生活・毎日を、生かされているいのちを大切に生きてまいりましょう。この日々の生活を大切に生きることこそ、超高齢社会を安心して生きることにつながっていくものです。

合掌