40歳を越えてみて、しみじみ思います。
「四十にして惑わず」(『論語』)、・・・そんなことは無理!
人生には、必ず悩みが付きまといます。
何が善で何が悪なのか、人生の意味とはいったい何なのか、自分がこの世に生きている意味は何なのか・・・。
おそらく皆さんも、若き青春の日々をこのような悩みと共に過ごされた記憶があるでしょう。また、今まさに、この仕事は本当に自分がやりたかったことなのか、もっと他に幸せな人生があったのでは・・・等々、迷いには限りがありません。そんな迷いを常に頭の片隅に据えながら、ただ漫然と今を過ごしているのが私たちの日常です。
しかし、時は待ってくれません。「少年老い易く学成り難し」(朱子か?)。はたまた「世の中のムスメがヨメと花咲いて、カカアとしぼんでババアと散りゆく・・・」(一休禅師)。ひとたび無常の風が吹けば、この身は朽ち果てて、魂は独り旅の空に迷うばかり。
この世を「娑婆(しゃば)」とは、よく言ったものです。娑婆とは「忍土(にんど)」という意味です。つまり、どんなに辛く哀しいことがあろうとも、ただ堪え忍ぶしか術(すべ)がない世界。それがこの世の当たり前の姿。しかし、たとえ頭では分かっていても、愛しい人の死に直面したならば、喉の奥から込み上げてくる涙は留めようがないのです。私たちはそんな世界を生まれ変わり死に変わり、途方もない昔よりさまよいながら今日に至っているのです。だからこそ阿弥陀さまは、「我が名を呼べ。必ず極楽へ救い取る」と手を差し伸べて下さっておられるのです。それは遙か昔からのことです。阿弥陀さまの御心は、限りない慈悲そのものなのです。
「仏心(ぶっしん)とは大慈悲(だいじひ)これなり。無縁(むえん)の慈(じ)をもって、諸(もろ)もろの衆生(しゅじょう)を摂(せっ)したまう」(『観無量寿経』)
繰り返しますが、私たちの迷いには限りがありません。迷い苦しみながら生きてゆくのが、この世の当たり前の姿です。しかし、迷いながらも進むことによって分かる世界もあります。深まる信仰の世界があるのです。
私にとって忘れられないお話しがあります。ある御上人のお話しです。
それは、若き日の御上人が、お坊さんになるための修行に入られた時のことです。弱冠二十歳そこそこ、若き青年であった御上人。阿弥陀さまの救いを心から信じることが出来ないと悩まれたそうです。疑念や迷いが胸を苦しめます。「このような迷いを抱えたまま本山で修行を終え、いっぱしの僧侶となっても意味がないのではないか。お檀家の皆様に申し訳ない」と真剣に悩まれたそうです。ついに修行を止め山を下りる覚悟を持って、大僧正台下に心の内を申し上げたのです。
すると台下は、「なるほど、あなたの迷いは分かりました。しかし、『信仰』とは、日々『進行』するものです。今はまだ分からなくとも、そのまま進みなさい。必ず阿弥陀さまの仰せを信じることが出来ますよ」とおっしゃったそうです。
「悩み迷いながらでもよいのか・・・こんな私でもよいのか・・・」、熱き想いが胸に込み上げてきたそうです。「今こうして私が僧侶でいられるのも、台下のお諭(さと)しのおかげである」と、しみじみとお話し下さいました。
「信仰とは日々進行するもの」。なるほど、「行けば分かるさ」ということでしょうか。こんな私でもよろしいのですね。至心合掌。
さあ皆さんも、また一歩、人生の歩みを進めましょう。