浄土宗東京教区教化団

平成29年8月「去る者は日々に「近し」」石川隆信(城西組長安寺)

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 東京はお盆を新暦で行いますので7月に終わっていますが、全国的には8月の月遅れ盆が一般的です。(沖縄は旧暦で行うため、毎年時期が違います。)
 普段から、お仏壇を通して、御先祖様とは通じているはずですが、やはり、お盆の時期、亡くなっている両親や妹の好きだった物を供えたり、普段以上の「おもてなし」をしようと思います。遠くの友人や親戚がやってくると、ごちそうを用意したり、美味しいお店に連れて行ってあげたい、と思うような感じでしょうか?

 普段、亡き方のいる世界=極楽のことを強く意識しない我々です。中国の古い言葉に「惠蛄(けいこ=セミ)春秋を知らず」というのがありますが、夏生まれて夏死ぬセミは春も秋もあるのに知らない、と言う意味です。我々も、地獄も極楽もあるかも知れないのに、ふだん考えようとしていないだけかも知れません。

 亡き方に対してに限らず、自覚があって迷惑をかけていたり悪いことをしていたりするのはまだ良い方で、知らない間に罪を犯していることもある我々です。その報いで、最悪、地獄に行く可能性もあるはずが、そのような「愚者」の自覚を持ちつつ、南無阿弥陀佛とお念仏を称えることにより、常に阿弥陀様に寄り添って頂き、この世での寿命が尽きた時は、極楽に迎えて頂ける、というのが、法然上人の開かれた浄土宗の教えです。お盆の時期、亡き方のこと・亡き方のおられる世界のことを、身近に感じたいと思います。

 私事ですが、昨年50才になりました。最近、小さい字が読みにくくなっています。老眼です。「老」は、インドで仏教を開かれたお釈迦様が説いた教え、この世の苦しみ=四苦のうちの一つです。毎年、高校の同級生と同期会(飲み会)をやっていますが、今年、50才になったのを機に、既に亡くなっている(50才を迎えられなかった)同級生が4人いて、彼らの追悼法要をやろうということになり、増上寺の裏の円光大師堂と言う所で行いました。併せて、我々が高校3年の時の担任の先生で亡くなっている方お二人の御回向もさせて頂きました。仏教系の高校で、同級生に私を含めて3人お坊さんがおり、取り仕切りました。代表して、私に「仏教の話をして」と言われ、同級生40人ほど、あと、当時お世話になった先生3人も参列されていたので、大変緊張しましたが、その後の飲み会でお話しした時、80代の先生方は耳が遠く会話にならず、私の話が聞こえてなかったらしいことが判明しました!

 一般的に「去る者は日々に疎し」と言います。亡くなった方の記憶は日が経つにつれ薄れていくのは、多くの場合、自然の流れです。しかし、亡くなった方の年令に近づいて行くことも多いですし、また、我々もいずれ、この世での寿命が尽きる日が来るのは明らかで、亡き人のおられる世界に、年々、日々、近づいているのは確かです。去る者は日々に「近し」と言っても、間違いでは無いようにも思います。亡き人のこと、亡き人のおられる世界のことを、ふだん以上に想いながら、8月のお盆は家内のお寺(京都)の棚経回りを出来ればと思います。
 どうぞ、皆様、熱中症にお気を付け下さい。  合掌