浄土宗東京教区教化団

平成29年10月「ご先祖さまのこと」入西智彦(城北組得生院)

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 お彼岸も過ぎ、十月を迎え秋の深まりを感じるようになりました。

 最近、顔も見たことのない先祖の供養に参列する必要はないのではないか、という趣旨のことをおっしゃる方がありました。ゆっくりお話できる状況ではなかったので、その方の真意はわかりませんでしたが、私にはちょっとした衝撃でした。

 でも、考えてみれば、直接会ったことがない人に親しみを感じにくいのも当然のことかもしれません。多くの方の場合、曾祖父母様にお目にかかったことがあるかどうかといったところで、その前となると「顔も見たことのない先祖」ということになって、名前もすぐにはわからない。

 人数で考えても、曾祖父母で8人、5代さかのぼれば32人、10代で1024人、当たり前ですが倍々で増えていくのです。さかのぼれば重複することもあるでしょうが、とにかく大勢のご先祖さまがいらっしゃる。

 さらに「先祖」とひとくくりにすると、漠然としてしまって、そのお姿を具体的に心に思い浮かべることもむずかしい。また、多少の記録が残っていても、すべてのご先祖さまについてくわしく知ることはできません。

 それでも、いま私たちがここに生きている以上、記録がないからといってご先祖さまたちが存在しなかったわけではありません。明治維新のときも江戸幕府開府のときも、もっとさかのぼって奈良・平安時代、さらにもっと過去の時代にも、ご先祖さまひとりひとりが、それぞれの人生を私たちと同じように一生懸命生きていたはずです。職業もさまざま、長寿の方も短命の方も、成功者もつらい人生を送った方もいたことでしょう。

 であれば、私たちで勝手に想像してみるのもひとつの方法だと思います。

 たとえば、博物館で展示される歴史資料を見学するとき、歴史小説を読んだり、大河ドラマを視たりするときにも、資料が示し、作品に描かれた時代を自分のご先祖さまが生きていたことを心に思い描くのです。

 いまに伝わる歴史的瞬間を目撃した人も、そんなこととは全く関係なく自分の生活を送っていた人もいたでしょう。どんなふうに想像してもよいのです。具体的な歴史的事実を知ることはできなくても、それぞれの時代を生きたご先祖さまの息吹を身近に感じとることができるかもしれません。

 そして、どんな人生を送ったご先祖さまであれ、おひとりでも欠ければ私たち自身が存在しないのだと考えると、ご先祖さまのありがたさと同時に、自分という存在がいかに貴重なものであるかが実感できるのではないでしょうか。顔を見たことがあってもなくても、大勢のご先祖さまの人生の連なりの果てに、私たちがいまを生きているのですから。

 ご供養への参列の要不要の問題を超えて、そうした想像力が人生を豊かに、大切にすることになると思いますし、ひいては私たちにいのちをつないでくれたご先祖さまへのご恩返しにもなることでしょう。

 こんなお話、当たり前のことだといわれればそのとおりなのですが、当たり前のことを知っていて普段忘れがちな私たちですので、秋の夜長にご先祖さまおひとりおひとりの人生に思いをいたして、想像を巡らせてみるのも私たちの人生に大いに意義あることではないでしょうか。