先日、当山の行事お十夜が終わり、寺での大きな年中行事も終了致しました。
そのお十夜でご法話頂きました円通寺後藤上人のご法話から改めて感じたことをお話し致します。
上人よりご法話を頂く前に、今夏、亡くなった私の母の為に檀信徒の皆様とお念仏を唱えて頂きました。そのお念仏は私の母へ向けた回向であり供養になるというお話を頂戴しました。
小さいとき母に連れて行ってもらったところや、母との何気ない出来事や会話の中に思い出を回想しては、大きな失意の中におりました。心にポッカリと穴が空いた状態の中、いつまでもくよくよするのは亡き母の為にもこのままでは駄目だと思い、僧侶として自分が母に出来ることは回向し、供養することだと悲しさの中から頭を切り替える事にしました。いつも行っているお勤めでの回向、追善供養について改めて深く考える機会となりました。
まず回向というのは読んで字の如く「回り差し向ける」という意味で、自分が修得した善根の功徳を他に回し向けることを言います。つまり回向というのは亡くなられた方への安らかな往生を願って供養し、亡くなられた方へ向けての読経や善行が自分の悟りの一助けとなると共に、亡くなられた方へ向けて分け与えることであります。
それと併せまして追善供養というのは、生きている我々が亡くなられた人に対して行う供養のことです。敬いの心を持って亡くなられた方のために、法要を修することで善業を行う事とあります。亡くなられた方の往生を願うのが根本の目的です。
年回法事・法要も、残された我々が、その念仏回向の功徳をもって亡くなられた方の往生を願う趣旨で年回の法事、法要を行っているのです。
又、追善というのは文字が表わすように、生きている人が行う善業を持って、亡くなられた方の善業になる、それがまた自分に戻ってくるという考え方です。まさにそうなると先程の回向の話につながってきます。
回向には二通りありまして自己のおさめた功徳を他へ向けるつまり、自分から相手に向ける往相回向と極楽に往生したものが仏力を得て我々に還して頂く回向を還相回向といいます。
この回向については「梵網経」 にも「死後には経文を読誦し、その功徳福分を回向し人間と天上とか良き処に生まれる事ができるようになせよ」と追善供養をなすべき事が説かれております。亡くなられた方の追善へ、善業をすることがそのまま亡くなられた人の利益となり、同時に残れる現在の我々の功徳となって善業が広がり生きて行き、そして亡き人が救われるという事につながってきます。
大事な事は残された我々が、亡くなられた方を縁として善を為すという供養の精神を受け取ることではないでしょうか。
そうなると仏教の根本精神の縁起につながってきて、皆つながりを持っていて、如何なるものも限りのない縁によってできていて、助け助けられつつ共生しているのが縁起です。この縁起の法門をよく表したものが阿弥陀信仰であります。
そこには我々が救われたのも阿弥陀仏の本願力によるものとするのであります。亡くなられた人の追善も全て阿弥陀仏にお任せ申し、念仏を励んでみ心を心として生活してゆくことが最上の追善供養の法という教えであります。
法然上人のお言葉の中でも「阿弥陀仏に全てを任せて一心に念仏を申せば自らも亡くなられた方も、共に御光におさめられてお救いに預かる事が出来るのであり、お念仏を申して如来の御心を心として生活していけば自らも亡くなられた方も共に阿弥陀の御光に生かされ、世の人々とも同じくみ仏のお恵みの中に共に生きてゆく事ができるのでありまして、これが最上の追善供養となるのであります」と説かれております。
私も母の為に一番の供養はお念仏をお唱えすることだと悲しみのなか、再認識致しました。
故人への喪失の気持ちは誰でもあるものですが、故人の為にも心から合掌し、お念仏を唱え、亡き人を思い御供養してこそ始めて本当の供養となるのでないでしょうか。お念仏は広大な功徳があるので、故人の為にも自分の為にもお念仏から離れない生活を皆さまに送って頂きたいと思います。