浄土宗東京教区教化団

平成21年8月「お盆に思う親の心」後藤真法(江東組圓通寺)

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 「お盆に思う親の心」


 後藤真法(江東組圓通寺)

 

  先日(7/13)、国会にて臓器移植法A案が可決されました。充分な話し合いもされないまま政局の混乱の中、あまりにも急に成立した感が残ります。それによって臓器移植に対する規制は従来よりずっと緩いものになりました。いわゆる脳死状態を人間の死とすること、年齢規制が無くなったこと、また家族の承諾があれば臓器を提供できると言うことなどです。世論も賛否がちょうど半々に分かれましたし、私の身近な僧侶仲間でも、この問題はたびたび話し合われています。

 まず、脳死を人の死と法律で決めてしまっていいのかどうか?つまり人の寿命を人が決定することへの疑問が残ります。脳死移植検証会議委員を務める作家の柳田邦男氏は「ドナーを増やしたい、移植の手続きを簡単に、というのは死への冒涜である。医療現場は決して死を押しつけてはいけない」と話していますが、私もその意見に同調する一人です。

 しかし「もし、あなたの子が臓器移植しなければ助からなかったらどうする?」と、尋ねられると返す言葉に自信が持てません。数年前、私の長男が脳内出血を起こして緊急入院をし、数日間、瀕死の子を見守った経験があるので、臓器移植を求めるご両親の気持ちはよく解ります。また、脳死状態の子を持つご両親の複雑な気持ちも、同様にわかります。この法案によって今後、彼らが「他の子を助けるため、わが子は死んだ方がいいのか・・」という思いに苛まれることが充分考えられるからです。

 誤解のないよう記しますと、ここで私は、臓器移植を求める親たちのことを諫めるつもりは毛頭ありません。私だって同じ立場になればそうするかもしれないのですから。ただ、親として願う当然の感情と、法案の是非を問おうとする思考は別でなければならない、と思うのです。とかく私たちは、自分中心にものごとを考えてしまうのですから。とりわけ精神的に追い詰められている時は、全体的な判断をすることなど、とてもできません。冷静に考えればエゴイズムだとわかっても、せっぱ詰まっている自分をどうすることもできなくなってしまうのです。

 お盆の由来の一つである『仏説盂蘭盆経』を考えてみます。この盂蘭盆という言葉はウランバナ(倒懸)といって,逆さ吊りの苦しみという意味です。逆さ吊りの苦しみを受けているのは、お釈迦さまの弟子、目連さまのお母さんです。目連さまにとっては優しい母親でしたが、彼女は貧しい階級の子供が飢え苦しんでいても、彼らに施しをすることはありませんでした。死後、餓鬼道で逆さ吊りにされているのはそれが原因とされ、自分の子に偏愛するあまり、全体的な見方ができなくなることを誡めたお経の一つといえましょう。

 しかし、よくよく考えてみれば、他人の子よりも我が子が一番可愛いと思うのは、目連さまの母親に限らず誰だってそうですし、それが逆さ吊りの罪にも値するというのなら、私だって同罪です。そう考えれば、この世の誰もが皆、自己中心で、そのようにしか生きていけない罪悪生死(生まれ変わり、死に変わり)の存在でしかないのです。目連さまの母親の姿は、とりもなおさず私たちの姿そのものであり、死後は私たちも逆さ吊りの罰が待っていると受け取らなければならないでしょう。

 でも、こんな私たちであっても、この身このままで阿弥陀さまはお念仏ですくい取ろうと願われたのであり、だからこそお念仏の行は有り難いのだな、とあらためて理解します。そもそもお念仏の信仰は、この私自身のありのままの姿を深く知り、見つめなおして、その身勝手さを懺悔し続けることなのだと思います。親はどうしたって自分の子が一番可愛いのですから・・・。

 それにしても、昨今の医療の進歩はあまりにも速く、その恩恵にあずかることは有り難いと思う反面、この技術は倫理的にどうなのだろう、この先どうなっていくのだろうと、僧侶の立場で常に考え続けていかねばならないと懸念します。