浄土宗東京教区教化団

平成22年3月「西方極楽浄土に想いを馳せて」伊川浩史(豊島組法眞寺)

     

    

 「西方極楽浄土に想いを馳せて」

    伊川浩史(豊島組法眞寺) 

 

  

 昔から「暑さ寒さも彼岸まで」と言われますように、少し暖かくなったと思ったら、また冬の寒さに逆戻り、と云った不安定な天候が、やっと安定して来る頃でございます。

 季候は、「お彼岸」を迎えれば、自然に暖かく安定してきますが、私たちの心はどうでしょうか。いつも煩悩や迷いに満ちた此岸に繋ぎとめられて、煩悩を脱した悟りの世界(彼岸)へは、なかなか行けるものではありません。

 ですから、春分の日と秋分の日をはさんで前後三日間を、彼岸へ渡る(到彼岸)の仏教の修行週間として来たのです。この春分の日と秋分の日は、一年の中で昼と夜の長さが同じになり、太陽が真東から昇り真西に沈みます。これは、仏教の「中道」の教え(相対立するもののどちらにも偏らない教え)になぞられます。

 お釈迦さまは、6年間の長い厳しい苦行の末、苦行を捨てられたのです。これを、「中道の悟り」といいます。そして、その中道に沿ったご修行で、悟りを得たもの(仏陀)となられたのです。厳しい苦行を捨てたからと云って、その反対の快楽主義に走る事無く、目的に適正な修行方法を実践する事が中道なのです。

 しかし、悲しいことに、「囚われなく、偏らない心で修行する」と言っても、私たち無明煩悩の闇の住人は、自分が囚われている事すら解らず、偏っている事さえ、更にもっと言えば、迷っている事さえ解らないのです。

 そんな私たちの為に、阿弥陀さまは「ご本願」を立てられたのです。「私の名前を呼びなさい。決して離したりはしないから。必ず一人も洩らさず救い摂る。それが叶わないならば、私は決して悟りを開かないし、仏にはならない。」、そう仰って、西方極楽浄土を建てられたのです。

 富める者も貧しき者も、罪の深き者も浅き者も、善人も悪人も、分け隔てる事無く、「南無阿弥陀仏」と称える者は全て、往生(阿弥陀さまのお浄土に往って生きる)させて頂けるのです。これは、実に頼もしく有り難い事です。迷い悩む者達が、そのまま、自ら称えるお念仏だけで、救い摂られる浄土は、阿弥陀さまの西方極楽浄土しかありません。

 だからと言って、お念仏をすれば、後は何をやっても良いと云う事ではありません。仏教の根本は、因果の道理です。この因果の道理を踏み外したら、それは仏教ではありません。

 つまり、阿弥陀さまのご本願を免罪符にしてすすんで悪を犯してはならないのです。それは、毒消しの薬があるからといって、すすんで毒を飲んではいけないのと同じです。悪を恐れ善を行う心がけ(諸悪莫作・衆善奉行)を教えているのが仏教です。しかしこの、子供でも知っている様な事でさえ、大の大人が実行出来ないものなのです。この善とは、阿弥陀さまの御心に沿うものの事です。

 だから、法然上人が「一紙小消息」の中で、「罪は十悪五逆の者も生ると信じて、少罪をも犯さじと思うべし(たとえ十悪五逆と云う様な重い罪を犯してしまった者でも、自分の罪を深く反省し、お念仏を称えれば、極楽へ救い摂られると信じる一方、だからこそ、小さな罪も犯すまいと心がけるべきですよ)」と諭して下さっているのです。

 また逆に、因果の道理を自分勝手に解釈し、阿弥陀さまのご本願を疑うような事は決してあってはならないのです。どんなに罪深い者でも、お念仏の中に、救い摂られるご縁を頂けるのです。

 「悪因苦果・善因楽果」と言われますように、私たちが造り重ねた悪因は苦果をもたらします。しかし、阿弥陀さまの御本願により、お念仏と云う善行が善因になり、極楽往生させていただけると云う楽果が待っているのです。

 この事をしっかりと受け止め、西に沈む太陽の彼方にある、極楽浄土に想いを馳せ、また、先に往った親族や友人と云った大切な人たちとの再会を楽しみに、お念仏に励みたいと思います。

合掌