浄土宗東京教区教化団

平成30年8月「「南無阿弥陀仏」と称えない方を、阿弥陀様は救われないのか?———願いをおこし、念仏の功徳を回し向ける———」土屋正道(芝組観智院・多聞院)

tuchiya2_s

 平成30年7月豪雨により逝去された方々に哀悼の意を表します。
また、一刻も早く行方不明の方々が無事発見されますこと、少しでも早く被災された方々の生活が元に戻られますことを祈念いたします。浄土宗も青年僧侶の街頭募金を皮切りに、継続的な支援をしてまいります。何卒お支えいただきますよう、よろしくお願いいたします。
 地震、津波、噴火、豪雪、豪雨などの災害。海外に目を転じても大旱魃(かんばつ)や竜巻といった自然災害ばかりではなく、放射能被害、銃乱射事件やテロ事件などにいつ遭遇するかわからない世の中と感じます。多くの方々の身内や知人が災害や事件に巻き込まれています。他人事とは思えません。

「あなた…。今どこにいるの?」
当事者の方は、胸も潰れる思いでしょう。
「御隠れになったあの方、行方が分からないあの方は、一体どうなさっているのだろうか?」「仏様や神様は助けてくださるのだろうか?」

 直接のご親族でなくとも、多くの方がお思いになられたのではないでしょうか。
「私の国に生まれたいと願い、私の名を称えるすべての方を救う」

 この阿弥陀様の願いを信じて念仏称える方は救済される。では、称えなかった方は?救われないのだろうか?

 今年50回忌を迎えた私の祖父、土屋観道上人も修行時代に同様の疑問を持ちました。死への恐怖が人一倍強かった彼は浄土教に救われ、早稲田大学理工学部をやめて宗教大学(大正大学の前身)に転身し僧侶になります。大正5年から数年間、宗教大学教授(後の京都百万遍知恩寺66世)中島観琇上人と、光明主義を提唱された近代の高徳、山崎弁栄上人(明年100回忌)という二人の師匠と、増上寺山内多聞室(現多聞院)で起居を共にいたしました。後に眞生(しんせい)主義を掲げ念仏興隆運動を展開することになります。

 ある日、観道青年は観琇上人に尋ねました。

観道「阿弥陀様は、菩薩の時代に念仏を称えたものをお救い下さる願い(本願)をたてたといいますが、称えない人も救ったっていいじゃないですか?」

観琇「もう願いを立ちゃったんだから、しょうがないだろ。どうしてもというなら『称えない人も救う』という願いをお前がおこせ。観道、お前もなかなか頭がいいが、俺が考えるに、阿弥陀様の方がお前より知恵が深いと思うが、どうだ? だが、とても大切な疑問だから念仏修養の中で、時々その疑問を棚から下ろして考えてみなさい」と言われたそうです。さすがの観道も阿弥陀様と比べられたら二の句が継げなかったと言います。

 師僧の観琇上人は
「助け給え。南無阿弥陀仏、助け給え。南無阿弥陀仏」と悲痛なまでの声で自らの救済を願いながら、時として「わが姿を見んもの、わが声を聞かんもの、ことごとく往生を得せしめん」どうか阿弥陀様、私を浄土にお迎えください。往生がかなうならば必ずや仏となり、私の姿を一目見た人、私の声を一声聞いた人を、ことごとく往生させずにはおきません。と自らの願いの言葉を称えていらしたと言います。
 
 自ら積んだ善根功徳の報いを自分だけのものにせず他者に振り向けることを回向と申します。例えば、お隣さんの下山さんが温泉饅頭を買ってきてくださった。日頃仲良くしている功徳ですね。全部食べてもいいのですけれど、お向かいの上川さんのお宅に「下山さんから頂いたお饅頭、少しだけどおすそ分け。どうぞ召し上がれ」とお持ちになる。功徳を自分だけのものにしない。文字通り、回し向けることが回向です。

 法然上人は、
「平生においては毎日のお念仏をも、ともかく懇ろ(ねんごろ)に振り向けましょう」
毎日、念仏を称えた功徳を、亡き方、苦しみの世界にいる方に回向しましょう、と仰り、無量寿経 光明歎徳章をおひきになっていらっしゃいます。(勅修御伝第23巻)

もし三途勤苦(さんずごんく)(火途、刀途、血途(かず、とうず、けちず))の境涯(きょうがい)にあって、この光明に見(まみ)えさせていただければ、みな休息を得て、苦悩がなくなり、その境涯のいのち終わった後、皆ことごとく苦しみの世界を離れさせていただけます。

 念仏を回向するならば、阿弥陀様は、すべての世界に光を放って、生きとし生けるものをお救いくださいます。たとえ三途(火塗・刀塗・血塗)と言われる地獄(絶望)、餓鬼(不平不満)、畜生(恩知らず)という恐ろしい世界にいらっしゃる方も、阿弥陀仏の光に見えることができるならば、休息を得て苦しみを免れ、その世界の命終わる時、苦しみの世界を離れ往生させて頂くことができます、とお説きになっています。
 
「70億人平等往生」と私はよく申しております。(2018.7.24現在、世界人口74億8520万人)しかし阿弥陀様の救済は地球上の人間世界に限られるものではありませんでした。阿弥陀様は、本願を信じ念仏を称える方を救う、とお誓いになられましたが、たとえ念仏にご縁がなかった方、称えなかった方もお見捨てにはなりません。すべての世界を仏様の光明は照らしているのでした。念仏の教えは究極の平等救済の教えであります。

 観道上人は、大正11年に次のようにおっしゃっています。
「眞生主義は、宗祖法然上人の教えを正しく現代に受け継ぐことを理念としました。
この世は闇の世、苦しみの世界と考えるのは自分の目が曇っていたためで、一歩進んで目さえ開ければ、光明はどこにもここにも充ち満ちています。至心に念仏申す人は如来の光明をこうむり、いつしか霊性が開発され、現実の世界でそのまま助かる道が感得されます。未来の救済を願うだけではなく、ただ今から未来世を貫く、永遠の生命と無限の向上を求め、人格の完成を目指します。」この眞生の盟(ちかい)を同じくする念仏ネットワークが、眞生同盟です。

 念仏を称える身は、阿弥陀様に日々護られ、お育てを受け、必ず浄土に迎え取られる、願いがかけられた存在です。その願いに報いるように、仏となる願いをおこし、生きとし生けるものの救済を目指す、そして仏様の御心を少しでもこの世に表すことができるよう、念仏回向していくことが使命であると思います。今日生かされていることを感謝し、使命を果たす御恵みを請い、念仏精進してまいりましょう。南無阿弥陀仏