9月のお彼岸が過ぎたころ、住職方の会合で「今月の法話」の執筆を引き受けてしまいました。人前でまともに話もできない身でありながら、この大役をどうしたものかと悩みつつ、書かせていただいています。
世間では11月になりますと、十夜法要も盛んになってまいりますが、私のお寺では十夜法要を行っていないので、行事の準備もすることなく、近隣のお寺にお手伝いに上がるだけに過ごしています。
私は特に浄土宗の僧侶の中で、「人権」について学ぶ委員会に所属しています。11月はさまざまな委員会が多く催される月ですが、私も人権の研修会の準備をしたり、他団体の人権研修会に足を運んだりして学びを深めています。このページをご覧の方々は、浄土宗のお檀家やそうでない方々や、僧侶の方もおられることと思います。企業やお役所にお勤めの方の中には、人権の研修会をお受けになった方も多いでしょう。昭和40年以降に生まれたお坊さんは、浄土宗の僧侶の資格を得る課程で人権の講義を聞くことが必要となっています。
人権の学びとは「さまざまな差別をしない、させない」ということに尽きるのですが、このことは当たり前と理解していても自らの身にかんがみると、はたして大丈夫なのかといつも自省しています。
仏さまは、分け隔てなく、すべてのものを救うとのお誓いを立てられました。お念仏は、阿弥陀さまのお誓いにより「南無阿弥陀仏」ととなえれば、すべての人を救ってくださる「分け隔てのない」教えです。「人権」の根本的な精神と共通の教えです。
浄土宗をお開きになった法然上人は、
月影の いたらぬさとは なけれども
ながむるひとの こころにぞすむ
と、お詠みになりました。私たちが頼りにする阿弥陀さまを月にたとえて、見上げる人の意識の中に入ってくる様子を表現しています。いたらない我が身ですが、一声でも多く、一人でも多くの人たちにとなえてもらえたらと思います。
誰でも、いつでも、どこでも唱えられるお念仏こそ、生きとし生けるものの平等を掲げる「人権」の元となる教えだと思うのです。
差別のない社会を、お念仏のひと声から築いていく「人権」をともに学んでまいりたいと思います。最後までお読みいただき有り難うございました。 合掌