「おだやかさと、強さ」
法然さまは、やさしく穏やかな方との印象がありますが、強さと積極性をも持たれていた方とも言えます。その点を、そのご生涯から見ていきましょう。
旧仏教からの度重なる強訴により、建永二年(1207)、上人七十五歳の時、院宣によって、念仏停止・土佐への配流が決まりました。この時、弟子の一人に念仏についてお述べになったのに対して、別の弟子が、このような時期に世間の機嫌をそこねるようなことは避けた方がよいのでは、と申し上げたのです。
それに対し法然さまは、
我、首を切らるとも、この事言わずはあるべからず。
とおっしゃいました。本当にお考えの様子がお顔にあらわれて大変迫るものがあったので、お弟子たちはみなこらえきれず涙を流したとのことです。この言葉は、筆者の自坊・妙定院所蔵の『法然上人伝絵詞』(琳阿本)(浄土宗宝・東京都港区指定文化財)にある言葉です。
すごい言葉ですね。念仏弾圧の嵐が吹き荒れているとき、普通ならばその風が少しおさまるまでは、少し静かにしようと考えるものですが、そうではないのです。法然さまの強さ、そして念仏の教えに対する深いおもいが見てとれます。
この言葉だけではありません。お弟子(信空)が、「ご老体にははるか遠く海を渡る旅はお命の点でも心配です。私たちは教えが聞けなくなります。一向専修の念仏を広め行うことを中止する旨お上に申し上げて、こっそりと目立たないように導かれたらいかがでしょう」と言ったところ、法然さまは、「八十歳近くになってたとえ京都にいてもお別れは遠くない。都には長らくいたから、都から離れ、辺鄙なところで人々に念仏を伝えることは長い間望んでいたことです。人の力で止めようとしても、仏法は決して止まるものではありません」とおっしゃったとのことです。(『法然上人行状絵図』巻三十三)
年をとられても、ものすごい迫力だと思います。信念の強さによるものなのでしょう。 一方、次のような面もあります。
学問ははじめて見たつるは、きわめて大事なり。師の説を伝え習うはやすきなり。(『法然上人行状絵図』巻五)
「先生の説を伝えられて学ぶことはたやすいことだ」とおっしゃっているように、学問については厳しい面を見せています。そして上人は、このようなことを、修学中にも当時の師匠に向かって言った、と伝えられています。
ただ、やさしくて何でもよいとする軟弱な人ではなかったということが分かります。
さらにもう一つだけ加えましょう。
自他宗の学者、宗宗所立の義を各別に心得ずして、自宗の義に違するをは、皆ひが事と心得たるは、いわれなきことなり。 (『法然上人行状絵図』巻五)
それぞれの考えを理解しないで、自分の考えにそむくからと言ってまちがいだと考えるのは、理由のないことだ、というのです。それぞれの違いを認めた上で、自らの説を主張し、かつ他の考えを尊重せよ、と言われているのがよく分かります。
こうして見ていきますと、法然さまは、強さと幅の広さを兼ね備えていた方と言うことができます。それが、肖像画に描かれているあのお顔となってあらわれているのでしょう。 私たちもこの双方を少しでも相持ちたいものです。