「救いのため、歩みだした阿弥陀さん」
村山好信(江東組 良信院)
今年の一月に半年間の闘病生活の末、大腸がんで亡くなった六十三歳の男性のお話です。
通夜供養の前に、「苦しんで顔が歪むほどであったので主人を楽にしてやって下さい」と涙ながらに奥様からお願いされたのです。あまりにも苦しい顔なので皆にお別れをして頂くにも辛いようでした。
私と同じ歳であったので特に一心に念仏供養を申し上げたのですが、通夜の読経の最中に不思議なことがありました。その祭壇の弥陀三尊のお掛け軸の阿弥陀様の右足が出たり引っ込んだりしているのでビックリしたのです。私の眼がおかしくなったのではと驚きながらも読経を済ませました。
寺に戻り家族にこの事を話したら、笑って、疲れていたでしょうと一蹴されてしまいました。
次の日の葬儀に奥さんが「昨日は本当に有難うございました。主人の顔を見て下さい。昨日と違い穏やかに良い顔をしています。昨晩は誰にも見せることができなかったが、穏やかな顔を親族の方々に見て頂きました。」と申されておりました。
私も昨晩の阿弥陀さんの右足の話を致しました。参列者は「念仏の功徳と成仏するということ、救われるということを目の前で体験し実感させて頂きました」と感激しておりました。
葬儀の最後に法然上人が詠まれた
月影の いたらぬ里は なけれども
ながむる人の 心にぞすむ
を皆さんと共に称えさせて頂き、南無阿弥陀仏と称えれば平等に救われる教えを味遇わせて頂きました。
特に最近「葬儀はいりません。戒名はいりません。お墓はいりません。」と言うと何か現代的で進んだ考え方であるかのように思っている方が多いですね。お念仏によって救われるこの有りがたさに触れることのできない人達を私はかわいそうな人と思うようになりました。
最近、有名になった九十八歳の詩人、柴田トヨさんの詩集『くじけないで』(飛鳥新社刊)に合うことができました。
陽射しやそよ風は えこひいきしない
夢は 平等に見られるのよ
お念仏を称える人々を阿弥陀様の平等施一切の心に触れさせて頂き、気持ちよさと有りがたさを感じさせてくれたような気がしました。