浄土宗東京教区教化団

平成27年5月「心のゆとり」樋口威道(玉川組延命寺)

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「心のゆとり」


樋口威道(玉川組 延命寺)


 毎年5月は、自坊でお施餓鬼の法要を行っています。
 お施餓鬼は餓鬼に施し先祖代々や有縁無縁の諸精霊を供養する法要で、その行いによって私達自身も善行を積むことが出来るのです。餓鬼が生きている餓鬼道という世界は、「いつも燃えるような渇きが癒えず、心にゆとりの無いとても大変な世界。」食べ物に苦労する事の少ない今の日本では、なかなか想像し難いかもしれません。

 しかし、いくら欲しくても手に入れる事ができない悩みは、少なからず皆さん経験があるのではないでしょうか。私達人間も普通に生活をしているつもりが、悩み・迷い・苦しみがあるとき突然やってきます。それは、お坊さんも例外ではありません。

 法然上人も御法語の中で、
「我がこの身は、戒行において一戒をも保たず、禅定において一つもこれを得ず。(中略)また凡夫の心は物に従いて移りやすし。(中略)まことに散乱して動じやすく、一心静まり難し(中略)悲しきかな、悲しきかな、いかがせん、いかがせん。」

 比叡山にいる時に、たくさんお経の勉強をして智慧第一と言われるまでになっても、いつも心が落ち着かず「どうしたら良いのだろう、どうしたら良いのだろう」と悩みが尽きません。

 浄土宗のお坊さんはいつも、日常勤行式というお経をあげています。その中には私達が犯した罪を、仏様に懺悔するという内容の偈文があります。

〇懺悔偈(『華厳経』普賢菩薩行願品)
「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡
 從身語意之所生 一切我今皆懺悔」
(私は昔から数えきれない正しくない事をしてきました。その原因は限りなく遠い過去からの「貪(むさぼり)」「瞋(いかり)」「癡(おろかさ)」によるもので、それらは、私の身体・言葉・意識によって生じたものです。今、すべて懺悔いたします。)

 悩みがあると、それを「無くそう」「解決しよう」「打ち勝とう」して、一時解決したとしてもいつの間にかまた悩んでいたり、悩みを無くすのが悩みになったり。「ストレス」は溜る一方ですね・・・。
 懺悔偈の中では、いつも悩み迷う自分を「そういうものなのだ」「みんなと同じで当たり前なのだ」として見つめて受け入れていきます。

 法然上人は、心の静まらない自分は「凡夫」であると。そんな「凡夫」である上人が救われたのは、「お念仏」に出会えたからです。

〇摂益文(『観無量寿経』)
「光明徧照 十方世界
 念仏衆生 摂取不捨」
(阿弥陀様の光明はあまねく全ての世界を照らし、いつも見守ってくれています。そして南無阿弥陀仏と心からとなえれば、阿弥陀様が必ず救って下さいます。)

 悩みがあるとき、家族や友人、信頼する人に相談して話を聞いて寄り添ってもらえると、心が楽になります。あまり言い過ぎると逆にお説教されたり愛想を尽かされたりも時にはしますが・・・。

 阿弥陀様は、いつでも私たちの気持ちを受け止めてくれます。
 お念仏をとなえれば聞いてくれています。阿弥陀様のお顔を拝めば見ていてくれています。心で念じればそれを分かってくれています。
「南無阿弥陀仏」の呼びかけに、いつでもどこでも「分かっていますよ」と応えて下さっていて、何回でも呼びかけるたびに、私たちの心が阿弥陀様とより親しくなっていくのです。

 お念仏は悩みがあるから唱えるだけではなく、何もない普通の時にこそとなえるべきです。病気が悪化してから治療するよりも、普段の生活で健康に努めれば、余計な病気にはかからないでしょう。ましてや餓鬼道のように、悩み心が荒れ狂う渦中で苦しんでいる時には、自分はその事に気付いていません。ですから餓鬼は「もっと欲しい、まだ足りない」という苦しみの中から抜け出すことが難しいのです。

 日々の生活の中で、普段からお念仏をたくさんおとなえして阿弥陀様との絆を深くし「心のゆとり」を広げてゆけば大事に至らずに済みます。また、たとえ命尽きるときに苦しみの中にいたとしても、最期の瞬間には阿弥陀様のお力で悩み・迷い・苦しみ無く極楽浄土に往生することができるのです。 南無阿弥陀仏