浄土宗東京教区教化団

平成27年10月「宇宙の果て」成田淳教(玉川組感応寺)

narita


「宇宙の果て」


成田淳教(玉川組 感応寺)


「宇宙の果て」と言った時、多くの方は想像もつかない遠くを思い浮かべるのではないでしょうか。では、その果ての反対側の果てはと言った時、反対側の虚空を見つめ、また途方もない遠くを思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。物理的空間としての宇宙の果てはそうかもしれませんが、認識という意味では、宇宙の果ての反対側の果ては、宇宙の果てを想像した認識主体である“わたし”自身です。

 この“わたし”はこれを書いている私と言うわけではなく、私にとっての“わたし”あなた自身があなた自身を指して言う「わたし」で、認識の主体側の事を言っています。

 お釈迦さまは阿含経というお経の中で「一切とはなんですか」という問いに対して「一切とは6つの感覚器官とそれぞれその対象である。つまり、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえる音、鼻と鼻に感じる香り、舌と舌に感じる味、身体に感じられる感触、心とその心に描かれるものや記憶」と説かれています。みんなに聞こえているけれども“わたし”に聞こえていない音は一切に含まれず、“わたし”に見えているけれども、みんなには見えていないものは一切に含まれる事になります。

 例えば、夢を見ている時、その夢は他の誰にも見えず聞こえず香りもせず味もなく感触もなく何も感じません。けれども、夢を見ている“わたし”にとっては、少なくとも実際に感じているもののはずです。長い間五感とその対象がリアルに感じられる夢を見続けたとして、それが夢だと気づくでしょうか。或いは“わたし”にとってそれが夢であるか現実であるかという事は問題でしょうか。また或いは、いま“わたし”が見聞きしている世界は夢かもしれません。

 “わたし”と“わたし”が感受する世界と言うものは、物理的な現象と影響し合ってはいても結局はそれらを感受し、認識し、或いは記憶を積み重ねて“わたし”に“わたし”によって投影されたものと言えます。

 「善因楽果悪因苦果」「自業自得」という教えがあります。原因として善い行いをすればその結果として楽を感じ、悪い行いをすればその結果として苦を感じます。それらは、あくまでも自分の為した想い、行為、発した言葉が原因となり、その結果を自分が受けるという事です。但し、結果は原因によってすぐに顕れる場合もあれば、環境が整わず後にそれとわからない形で感じられる場合もあります。いずれにしても、原因の影響力は持ち続けます。
 今後、どのような世界を“わたし”に投影するかは“わたし”の想いとおこない次第です。

 阿弥陀さまは、極楽に往きたいと願ってお念佛をとなえる人を必ず迎えるというお誓いを立てて、その誓いを成就して仏さまになられました。ですから、ひたすらにお念佛をとなえていれば、臨終のときに阿弥陀さまがお迎えに来てくださる事は、自然法則のように疑いのない事です。

 “わたし”にとって大切なのは、極楽が物理的に有るか無いか等という議論ではなく、極楽を見るか見ないか、つまり五感に感じるか感じないか、先立った人たちに会えるか会えないか。
 今生きている世界が現実か夢かもわからない“わたし”は、お釈迦さまの教えを信じてお念佛をおとなえしたいと思います。