「四摂事(ししょうじ)」
石井道彦(豊島組眞珠院)
菩薩が衆生の心をひきつけ、親しみを持たせ信頼させ、ついには仏道に引き入れるための四種の行為を四摂事と云うことはご承知の通りです。四摂法とも云いますが、人々を導くための四つの方法、逆にいえば、次の四つのことが備わっていれば人々を心服させ信頼さすことが出来る特色ある言動とも言えましょう。その四つとは、布施(見返りを求めない施し)・利行(りぎょう・相手の得になり利益になる行為)・愛語(真心のこもった温かい言葉)・同時(相手の身になり同じ立場になった行為)の四者です。この四事が全部揃っていなくても、一つでもあれば人々を引き付けられるともされています。
世界的文化遺産であり国宝にもなっている法隆寺の玉虫厨子の左側面に、崖下に横たわる数頭の虎に向って、崖上から身を翻して真っ逆様に飛び降りようとしている人物が描かれていますが、この画は“究極の慈悲心”とされる『金光明経(こんこうみょうきょう)』の”捨身飼虎”の説話に基づくものであることはご承知のことと存じます。因みにこの人物は帝釈天の計らいで生き返り菩薩の位に昇華しますが、四摂事の布施や利行に適う行為の結果のものでしょう。
虎に因んで『愛育王経』に
「親虎に死なれ飢えに苦しむ子虎を見付けたある聖者が、哀れに思って寺に連れ帰り弟子の修行僧と全く同じ情を掛けて育ててやった。しかし、人間より寿命の短い虎のこと、やがて命を終えることになった。この時も聖者は人間の葬儀と同じように“諸法無我・涅槃寂静・・・”と経文を説いて聞かせ懇ろに葬ってやった。何年か経って、一人の若者がこの寺に現われ修行に励むことになった。この僧は他人のいやがる仕事も喜んで行うばかりか、寺を襲う悪獣を追い払ったり何かと寺のために尽した。こうしたことを不審に思った仲間の修行僧が聖者に問うたところ、聖者は『人間に生まれ変わったかつての虎である』と明かした」
という説話がありますが、この説話からも愛語など四摂事に適った行為のいくつかを指摘できましょう。
ところで、当院の近くにNクリニックという医院があります。私共家族の家庭医(?)のような町の医院ですが、その待合室のテレビに他の映像と交って、かつて福祉関係者の間で評判になった樋口了一さんの歌の詩『手紙ー親愛なる子供たちへー』の詩句が時折映し出されます。
「年老いた私がある日
今までの私と違っていたとしても
どうかそのまま私のことを理解して欲しい。
私が服の上に食べ物をこぼしても
靴ヒモを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように
見守って欲しい。
私の姿を見て悲しんだり
自分が無力だと思わないで欲しい。
あなたを抱きしめる力がないことを
知るのはつらいことだけど、
私を理解して支える心だけを持っていて欲しい。
きっとそれだけでそれだけで
私は勇気がわいてくるのです。
あなたの人生の始まりに、私がしっかり
付き添ったように、私の人生の終わりに
少しだけ付き添ってほしい。(後略)」
四摂事の「同時とは、お年寄りの現状を自分の子供時代の姿とを重ね合わせて理解することだと思います。また、同時の立場に立つならば、自ずから他の三摂事もついてくる筈です。四摂事はそれぞれ切り離されたものではなく、関連して一体となった菩薩行ではないでしょうか。
クリニックのN院長の医者としてのモットーが待合室のテレビ画像となって表明されているものと考えます。実際、先生は私共患者の訴えを丁寧に聞いて下さり、少々手強い病気だと思われると大学病院の専門医に気軽に紹介状を書いて下さいます。四摂事とは僧侶の専権行為ではなく、全ての人間に共有されるべきものでしょう。
私も佛祖釈迦如来、宗祖法然上人の世寿八十歳を超えて何年か経ち、僧侶としての自覚もややもすると薄れがちですが、この拙文が少しでも視聴者の役に立つならば幸甚であるばかりか、「今月の法話」に書かせることで老衲に覚醒を促して下さった教化団の方々の勇気に感謝いたします。